【考える本棚】
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 加藤仁『宿澤広朗 運を支配した男』(講談社+α文庫)
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 スクラムハーフという人生
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 書店を歩いていて本書が目に入りました。親本は2007年6月の刊行。天才ラガーにして、三井住友銀行取締役専務執行役員だった宿澤広朗(しゅくざわひろあき)が、55歳の若さで急逝した翌年のことです。表紙を飾っていた立木義浩氏撮影のポートレートが、今回は帯にあしらわれています。思わず手に取り、レジに向かいました。

 言うまでもなく、2015年は日本ラグビー界にとって画期的な年でした。9月の第8回ラグビーワールドカップ・グループB開幕戦で、日本代表は強豪南アフリカ代表を、34-32で破るという歴史的快挙を成し遂げました。まさに大金星。

 3点を追っての試合終了直前、相手ゴール前でPKを得た日本は、同点狙いのキック(3点)ではなく、あくまで逆転のトライ(5点)を狙ったスクラムを選択しました。「勝つか、負けるか」――自分たちを信じ、リスクを取った日本チームに、勝利の女神はほほ笑んだのでした。

 目標のベスト8進出こそ果たせなかったものの、3勝1敗の好成績で大会を終え、長い低迷にじっと耐えてきたラグビーファンを、これ以上ないほど歓喜させました。日本代表がワールドカップで勝利をおさめたのは、実に第2回大会(1991年)のジンバブエ戦以来、24年ぶりのこと。その時、日本代表を率いていたのが、宿澤広朗監督でした。

 38歳で日本代表監督に就任した宿澤ジャパンのデビュー戦は、1989年5月28日、東京・秩父宮ラグビー場で行われた強豪スコットランドとの一戦でした。試合前の記者会見で、「スコットランドは攻撃的なチームだが、第二線のディフェンスが甘い。失点を20点に抑えれば必ず勝てる」と新任監督は宣言しました。日本代表が顔を揃えた初日から、相手の戦力を分析した上で、宿澤が終始一貫、言い続けたことでした。はたして28-24という、誰もが「奇跡」と呼んだ記念碑的勝利を、宿澤は目論見どおりに手にします。試合後の第一声――「お約束どおり勝ちました」の声と、得意満面の笑顔は、いまだに語り草です。

 今回、南アフリカを撃破した日本代表が次の試合で挑んだのは、そのスコットランドでした。結果、10-45の大差でねじ伏せられましたが、26年前の「あの日」の再現を夢見ながら日本チームに声援を送り、同時に「ここにはいない」宿澤広朗という、志半ばで逝った男に思いを馳せた人も少なくなかったと想像します。

 宿澤広朗は昭和25年生まれ。ラグビーではまったく無名の熊谷高校から早稲田大学に進学。1年生の時からレギュラーの座を獲得し、小柄ながら、スクラムハーフとして活躍しました。大学2年、3年の時の日本選手権では、社会人チームを相手に日本一の連覇を果たすなど、突破力、守備の広さ、戦術眼、意外性……どれをとっても、観る者をワクワクさせる存在でした。

 卒業後は銀行員の道を選び、ナショナルチーム同士の「テストマッチ」出場は3回にとどまりますが、銀行の為替ディーラーを務めながら日本代表監督に就任した途端、先述のスコットランド戦で大金星を挙げ、1991年のワールドカップでも日本に初の勝利をもたらします。また、2000年に日本ラグビー協会の強化委員長に就任すると、次々と思い切った改革案を断行し、日本ラグビーの将来を託す人材として、その手腕に期待する声は高まっていました。

 ただ、彼のプレースタイルや、にっと笑った表情は鮮烈な印象として焼き付けられているものの、彼がどういう人となりであり、ラガーではなくバンカーとしていったいどのような実績を上げていたのか、知るところはほとんどありませんでした。彼のほうが3歳年長ですが、ほぼ同世代。1973年に住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、国際派の銀行員をめざしながら、1985年のプラザ合意による急激な円高、ドル安、ニューヨーク株式市場が過去最大の下落を記録した1987年のブラックマンデー、そして湾岸戦争、バブル経済の崩壊、2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件……といった激動の時代を、彼がどう生きたのか?

 本書はそうしたサラリーマンとしての宿澤の足跡を丁寧に辿っています。銀行員のかたわら日本代表監督やラグビー協会の要職を務めるなど、“二足のワラジ”を颯爽とはきこなしているように見えましたが、やはり想像を絶するほどに熾烈な日々だったことが明らかにされます。「いつも全力疾走をしていなければ、失速しそうな気がする」と口にしていたそうですが、まさに太く短く、熱い魂を抱いて駆け抜けた一生だったという気がします。

 27歳の時、ロンドン支店に配属されると、「全戦全勝型」の為替ディーラーとして頭角を現します。34歳で帰国後は、為替一班班長、法人部次長、41歳にして大塚駅前支店長に。それを3年間務めた後は、市場営業第二部長となり、「攻めの宿澤」の本領を発揮します。バブル崩壊後の不良債権の損失補てんに苦しんでいた銀行で、収益の3分の1を稼ぎ出したというのです。

 2000年には49歳で執行役員に就任。翌年9・11の同時テロの際には、いち早くディーリングルームに駆けつけ、「機敏にして明晰な指示」を飛ばして陣頭指揮にあたります。2004年には常務執行役員・大阪本店営業本部長として大阪に赴任。ここで不良債権処理に見せた手腕や、新しい銀行業務へのチャレンジなど、本当に凄まじい仕事ぶりです。そして東京に戻って取締役専務執行役員に就任し、33年間におよぶ銀行員生活の集大成として新組織「CA(コーポレート・アドバイザリー)本部」を立ち上げた、その2ヵ月半後に不幸が襲います。

 大阪勤務時代に始めた休日の山歩きに出かけ、赤城山の外輪山・鈴ヶ岳(群馬県)に登頂し、下山しようとしたところで倒れます。心筋梗塞による突然死でした。

 東京・築地本願寺で営まれた通夜には2000人、翌日の告別式には4000人を超える参列者が集ったといいます。その数だけでも、彼が「いかに輝きを放つ存在であったか」を端的に物語っています。

〈祭壇には、畳ほどの大きさの三枚の遺影が掲げられている。中央にある写真は、スーツ姿でわずかに笑っている。これは「銀行員」としての顔であろう。むかって左隣はラグビーのジャージ姿、屈託なき「ラガー」として顔である。右隣は青いワイシャツ姿で横をむき、白い歯をのぞかせて満面の笑みを浮かべている。これは普段着の「家庭人」としての顔のようである〉

 こうした宿澤の足跡を見ていくと、やはり彼は選手時代そのままにスクラムハーフの人生を貫いたのだという印象を深く抱きます。あるいは、自らの資質にかなったスクラムハーフというポジションを見出すことによって、その後の生き方を迷うことなく選び貫くことができたのではないか、と。スクラムハーフの役割を、本書はこう記しています。

〈ラグビーの解説書には、つねにボールが出る場所にいて、ボールを奪取し、つぎの攻撃につなげるのが「スクラムハーフ」の役目とある。ボールをバックスに展開するか、フォワードに持たせて突進させるか、自分で運ぶか、自分で蹴るか、状況を瞬時に判断してその時点でもっとも効果的な攻撃方法を選択する。俊敏さが求められるので、総じて小柄な選手が多い〉

 宿澤の性格を評して、誰もが「負けず嫌い」を挙げています。でなければ、身長160センチあまりの司令塔が、自分より30キロも40キロも重い大男たちの突進に立ち向かい、果敢にタックルを見舞うことなどできません。そして、「ピンチをチャンスに変える男」という定評が生まれたように、冷静な戦術眼と俊敏な判断力、局面ごとの素早い思考の切りかえを持ち味としました。

 タイトルに「運を支配した男」とありますが、なるほど宿澤は強運の持ち主だと本書の中でも、多くの人が証言しています。ただ、宿澤にとっての「運」は「努力」によって切りひらいていくものでした。彼が大学卒業時に書いた「楕円形の青春」と題する一文は、それを簡潔に語っています。

〈楕円形のラグビーボ-ルは、よく人生の縮図であると言われる。つまりラグビーボールが不規則なバウンドをすることによって、ゲームの勝敗を左右することが、予測のつかない人間の未来にたとえられているのである〉

 しかし、およそラグビーにおいて、運だけが勝敗を決するものではありません。「たゆみない努力と、それによって生まれた実力と、それらを活かす恵まれた運、この三つがうまく相関した時に一つの大きな力となって相手に打ち勝つことができるのである」と、宿澤は明快に述べています。

〈これはスポーツに限らず、人が生きていく上でのあらゆることに共通するのではないだろうか。人間には、平等に、いろいろな形でチャンスが与えられる。それがどのような結果を生むかは、その人の不断の努力と、そなわった力によって大きく変わってしまうのであろう〉

 そして、次のように締めくくっています。

〈これからの人生において、大きなバウンドが何回か歩む道を左右するであろう。その時になって、どうころがるかは計りしれないものがあるけれども、少しでも良い方向にころがるように日々の努力を怠らないようにせねばなるまい〉

 ここに語られた人生哲学そのままに、彼の生き方は正攻法でした。ただ、その人生を振り返りながら、著者は哀惜をこめて、「努力によって運を支配してきたが、達成寸前にして運に見放される」という見方を下しています。そこに「孤高の素顔」を見ています。

 最後に、著者の加藤仁さんについてですが、彼も本書を著した2年後に亡くなります。62歳。初の著作が『現代サラリーマン事情』(中央公論社、1980年)だったように、市井のサラリーマン、それも定年退職者の取材を25年以上にわたって続けました(「週刊文春」連載だけで18年!)。地味ながら誠実な仕事ぶりで、取材した定年退職者は実に3000人以上と言われます。

「飽きる、なんてことはないですか?」とある日、失礼を顧みず尋ねたことがあります。「いえ、新しい出会いの予感がいつも楽しみです。これは悪くないですよ」との答えでした。この人の笑顔にも、正攻法の清々しさ、強さがありました。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)