【考える本棚】
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 武井弘一『江戸日本の転換点――水田の激増は何をもたらしたか』
(NHKブックス)
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 江戸版“日本列島大改造”の光と影
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 広く浸透している2つのイメージがあります。

 古来「瑞穂(みずほ)の国」の美称があるように、一面に広がる美しい稲田の風景は、神々もことほぐ日本の原風景だという見方です。

 もう1つは、近代工業化以前の江戸時代の日本は、環境にやさしい循環型社会のさきがけだったという認識です。たとえば、大都市江戸の住民が排泄した屎尿(しにょう)は、近郊の農村に運ばれて田畑の肥料として用いられ、そこで育った穀物や野菜は江戸庶民の食卓に供される――といったリサイクル(再生使用)や、古着・紙屑などのリユース(再使用)が日常的に行われ、低エネルギーで持続可能な循環型経済モデルが成立していた――江戸時代=エコ時代というイメージです。

 本書は、その2つの有力な通説をいきなり冒頭で揺さぶります。まず前者でいうと――。

〈たしかに、水田の歴史は長い。日本列島における水田での米づくりは、およそ二千五百年前に、朝鮮半島に近い九州北部で始まったとみられている。……近年では、その開始年代が五百年も遡るという調査結果も得られている。弥生時代には田植えも始まり、用水路・排水路を備えた本格的な水田も現れた。 しかし、この時点で今日のような、見渡す限りの水田という風景が広がったわけではない。そこに至るまでには、それから一千年以上もの時間が必要だった〉

 著者が考察するのは、江戸時代に入ってから大規模に行われた新田開発の実態と、それによって生まれた社会の変化です。

 後者については、まず環境省が作成した江戸時代についての記述が引かれます。

〈江戸期の社会は、地域での活動を中心とした循環型の社会であったと考えられ、また、現代に比べより低炭素型の社会活動を営み、自然共生の面でもより深い経験を伴った生活を送っていたものと考えられます。持続可能な社会は、低炭素社会、自然共生社会、そして循環型社会の構築に向けた統合的な推進の上に成り立つとの考えからも、この時期の取組は示唆に富むものです〉(『環境・循環型社会白書』平成20年版)

 いま一般に流布している江戸時代像ですが、これが今日の地球規模の課題を解決する糸口になるという認識です。ところが現実はどうだったのか――。江戸時代の水田農業の実態を調べると、エコでも循環型でもない深刻な破綻の様相が明らかになります。それが本書のテーマです。

 そこでまず、17世紀に各地で進められた新田開発という当時の“日本列島改造”がどのように行われ、いかなる影響をもたらしたのか、が詳述されます。

〈戦国の争乱が終焉し、国内で平和な時代が続く十七世紀に入ると、人びとのエネルギーは大地を切り拓くことに注がれるようになった。新田開発である。その結果、河川の上流から下流へ向かって開発が進み、沖積(ちゅうせき)平野とよばれる下流の平坦部にまで大規模な水田が造成されていった。これは日本列島の大改造といえる。 この大改造が耕地面積をほぼ倍増させたことによって、日本列島の歴史上、初めて一面に水田の広がる光景が出現したのだ。……新田には、それまでわずかな耕地しか持っていなかった者、あるいは分家した次男・三男などが入植して自立していった。こうして十七世紀には人口も倍増するなど、米は社会が経済成長を成し遂げる一因となったのである〉

 江戸時代版“緑の革命”だと著者は指摘しています。そしてこの間に、山の木々は伐採され、人工的に草を茂らせた草山(くさやま)が造成されます。草は地味を肥やす草肥(くさごえ)の元であり、牛馬の飼料としても必要なので、それを確保するための草山が水田の周辺には不可欠でした。ある試算によれば、「耕地を維持するためには、その面積の十倍以上もの草山が必要だった」というのです。

 このような自然改造をセットにしながら、17世紀に水田は激増します。

 ところが、18世紀に入ると、この発展は飽和状態に達します。政策的には、なお開発が奨励されますが、この頃になると急速な開発が自然や社会にかけた過重な負荷が、次第に歪みとなって顕在化し始めます。

 たとえば、下肥(しもごえ)、草肥など自給肥料だけでは足りないので、干鰯(ほしか)などの高価な金肥を域外からも購入するようになりました。農業はたちまち貨幣経済の中に巻き込まれます。そして金肥を買えるかどうかの貧富の差が、さらなる経済格差を生み出します。

 また、水田候補地が先細りになるにつれ、周辺の草山までが開墾されます。すなわち肥料である草の供給源の喪失です。そこでさらに山奥まで開発し、急斜面の森林を草地化するようになると、河川への土砂の流入が進行し、川底が上がって洪水のリスクが高まります。

 水田開発が進むにつれて、河川流域にも大きな変化が生れました。

〈開発期には河川から用水路を設け、あるいはため池を造って、そこから田んぼに水を引くことで、耕地が広がっていった。水便のよい河川流域に暮らさないのは、川が氾濫する危険があったからである。したがって、川の水が溢れても、ヒトへ与える危害は少なかった。 一方、耕地の開発がピークに達していた停滞期には、河川の流域にまで耕地が広がり、百姓はそこに居を構えた。ということは、川の水が溢れた場合、まさに決河(けっか)の勢いで人家や田畠は呑み込まれ、被害も大きくなる〉

 こうなると、もはや村や領主のレベルでは対応もできず、幕府が諸藩を動員するなど国家事業として乗り出す他ありません。土木・治水工事への出費は、各藩の財政事情を圧迫します。加えて、当時の土木技術では防水に万全の備えなど不可能です。水門や橋に使う木材も良質なものが枯渇して、結果的に管理コストだけが跳ね上がります。まさに開発のジレンマに直面することになったのです。

 ……等々、「列島改造→経済成長」という成功物語の裏側には、多くのリスクがひそんでいたことが判明します。それが徐々に矛盾となって噴き出して、未解決のまま幕末に向かっていくのです。まるで現代日本文明のアナロジーとして読めなくもありません。

〈つまり、新田開発は、土地が余り人口も少ない段階では、なんとか持続可能性を保っていた。それは右肩上がりの開発を続けた十七世紀のことなので、一時的なものといってよい。ところが、開発がピークに達した十八世紀前半には、人口は増えているのに、耕地の方は広がるどころか、既存の耕地を保つことすら危ぶまれるようになっていた。すなわち、誤解を恐れずにいえば、水田にささえられた江戸時代の社会は、その根底において持続可能ではなかったのである〉

 ユートピア的なモデルであるどころか、成長の限界、環境破壊の副作用に直撃され、新田開発は当時の日本を「水田リスク社会」に巻き込んだ、というのが本書の見立てです。

 ところで、これらの論証を進めるにあたって、著者は江戸期にさかんに書かれた農書のうち、加賀藩の篤農家・土屋又三郎の残した記録――『耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)』と絵農書『農業図絵』――を読み解きながら、当時の人々の暮らしぶりに迫り、そのありさまを具体的に再現します。これが実は、本書のもうひとつの楽しみです。

『耕稼春秋』には、米は白米だけでなく、赤や黒をふくめた、色とりどりの米が育てられていたと出ています。何と82種類もの銘柄が記載され、「瑞穂の国」の水田ではいろいろバラエティに富んだ米の試作が繰り返されていたのです。

「水田は狩猟・漁撈・採集の場としても利用されていた」とあり、獣害を防ぐ狩猟の結果(百姓は鉄砲を所有していました)、イノシシやシカが自給用に食されました。水田に生息するドジョウやタニシ、ナマズ、ウナギ、コイ、フナ、あるいは畠作の菜種、大麦、小麦、畦(あぜ)に栽培された稗(ひえ)、大豆、小豆、黒大豆などの産物は自給用に、また一部は商品としても売買され、換金すれば年貢・諸役の上納の足しになりました。

 そして水田では、稲作が行なわれる地平面だけでなく、「上空」も活用されました。つまり、武士たちが鷹狩りをする場として、非常に重要な空間だったのです。こういう立体的な認識もこれまではまったく持ち合わせませんでした。

 そして百姓は働きづめの“農奴”ではなく、「正月・盆・五節句や神社の祭礼といった年中行事」、あるいは農作業が一段落した時など、年間20日から30日ほど「遊び日」と呼ばれる休みを取りました。芝居などの娯楽で余暇を楽しんでいたというのです。稲を残らず取り入れた後には、「蔵入り」というお祝いごとが催されました。その様子を『農業図絵』で見ていると、女性が乞食に食事のお裾分けをしている場面も出てきます。

〈米の品種がバラエティに富んでいたことは、多様な生き物が田んぼに棲息する一因となった。しかも、今日のような殺虫剤や除草剤などの農薬も使われていなかった。すなわち、日本列島で水辺に棲む生き物がもっとも豊かだったのは、新田開発で田んぼが一面に広がった江戸時代だったのかもしれない。さらに踏み込むなら、水田を拡大させて社会の経済成長を成し遂げていくヒトと、その水田で豊かな生物相を形づくっていく自然とが「調和」していたといえるのかもしれない〉

 ただ、それは残念ながら意図した結果ではなく、偶然の産物、副次的な作用として生まれた「豊かな生物相」でした。水田を舞台にした食物連鎖や、本書が示す“日本近世型生態系”の図を眺めていると、ふと夢見心地に引き込まれます。ヒトにとっての水田が、生業の場にとどまらず、「精神的な安らぎ、ゆとり、もっといえばヒトの幸福をも実現させる」側面をもっていたからです。土屋又三郎の言葉を、著者が現代語に訳しています。

〈百姓は朝霧を払って家を出て、星空を拝みながら帰っていく。遠山・野山にいる時に畦を枕にして少し休むこともあるが、そういうなかにも安らぎがある〉

 新田開発には、経済成長とともに、こういう“光”の部分があったことも確かです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)