【考える本棚】
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 出久根達郎『幕末明治 異能の日本人』(草思社)
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 書物ある限り、人は死なぬ
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「埋もれた傑物たちの生涯を掘り起こす傑作読み物!」と帯にあります。列挙された“傑物”とは、二宮金次郎、幸田露伴、天田愚庵(あまだぐあん)、清水次郎長、丸山作楽(さくら)……???

 いかにも歴史に「埋もれた」、馴染みのない名前ばかり、と思われても致し方ありません。幕末明治を生きたはるか昔の人たちで、戦後も人気があったといえば、2代目広沢虎造の「旅ゆけば~」の浪曲で親しまれた清水次郎長くらいでしょう。

 幕末にはあまたの侠客が活躍しましたが、この次郎長がとりわけ全国的に知られるようになったのは、天田愚庵という異能の禅僧が、本人から聞き書きした実録一代記『東海遊侠伝』のおかげだといいます。しかも愚庵は、どうも幸田露伴訳注『水滸伝』(梁山泊に集まった108人の豪傑たちの物語。中国4大奇書の1つ)を手本にしたのではないか、と著者は見なします。

 本書の元になったのは、5年にわたって新聞連載された「新書物浪漫」と題する歴史エッセイです。軽快でユーモラスな筆致にのせて、舌を巻くような薀蓄が凝縮された、著者ならではの至芸の世界です。何とも贅沢な1冊で、幸田露伴に『宝の蔵』という著書がありますが、本書にも奉(たてまつ)りたいような書名です。露伴曰く、

〈ついては君らもこの蔵に一つ約束せよ。それは思考だ。考えることは悟ることの始めなり。くれぐれもよく聞き、よく考えよ。されば君らは真の宝を得るだろう〉 

 書物が人の生き方に影響を与え、人と人との縁を結び、その縁が元になってまた新たな書物が生まれていく――本書はその融通無碍で、摩訶不思議な水脈の広がりに、あたう限りリアルに迫ろうとしたものです。著者が食指の動くまま、楽しみながら見つけてきた逸話の数々に、思考がとめどなく刺激されます。

〈いつぞや、藤沢周平氏の故郷を訪ねた。山形県鶴岡市である。氏が二年ほど教師を勤めた、湯田川中学校に足を伸ばした。藤沢文学碑の近くに、二宮金次郎像が建っていた。なつかしや、あの、薪(まき)を背負って本を読みながら歩いている少年像である。昔はどこの小中学校にもあった。……そうだ、二宮金次郎だ。二宮尊徳こそ、今の世に必要な偉人ではあるまいか。節倹、積善、殖産、実践主義。何より六百余の町興し、村興しを成功させた。尊徳先生こそ、地方再生の先達(せんだつ)ではあるまいか〉 

 本書の出発点は二宮金次郎です。荒廃した町や村を立て直し、藩を再興した無私の超人。そこで私が思い出すのは、ミスタージャイアンツの長嶋さん。自宅の庭に二宮金次郎像を置いていると聞き、思わず笑ったことを覚えています。「燃える男」の、どこまでも明るく、自由奔放なイメージと、戦前の「修身」の匂いが強烈な二宮尊徳では、どうにもミスマッチだと思えたからです。

 ところが、スーパースターの隠された一面、ひたむきな努力家・長嶋茂雄を知るにつれ、二宮尊徳との深い精神的なつながりが、ようやく腑に落ちました。ちなみに、「長嶋邸の庭に……」という逸話を最初に聞いたのは、2代目広沢虎造の次男、山田二郎アナウンサー実況の「TBSエキサイトナイター」だったと記憶しています。

 さて、その二宮金次郎。戦前の学校教育を受けた人にとっては「忍耐と勤勉」のお手本だったかもしれませんが、戦後は学校の玄関付近にある“見れども見えぬ”石像の少年で、血の通った存在とは意識されませんでした。

 個人的には、内村鑑三の「後世への最大遺物」や『代表的日本人』(英語で書かれた外国人向けの日本人論)で紹介された二宮尊徳の記述を読み、なるほどこういう人だったのかと納得しました。農商務省の官僚だった柳田国男は、「社会改良事業家としての地位は、少なくとも日本の歴史に於(おい)ては空前」と述べて、二宮に多大な関心を寄せています。また、尊徳に一度会った勝海舟は、「至って正直な人だった」と語り、「全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例は、おれが確かに見たよ」と述べたとか。

 明治24年に、少年少女向けに出版されたシリーズの1冊として、『二宮尊徳翁』を書いたのが幸田露伴です。明治22年に作家デビューし、同い年の尾崎紅葉と、いわゆる「紅露」時代を築いた人。やがて鴎外、漱石とともに明治の三文豪と称されました。

〈ところが現在、露伴は影が薄い。鴎外や漱石に比べて、読まれていない。一つの理由は、むずかしいからである。内容が、ではなく、遣(つか)われている言葉や文字が、である〉

 実際、字面(じづら)を見ただけで怖気づき、娘の幸田文さんが書いている父親の博覧強記、知の巨人ぶりに怖れをなし、手が伸びなかったというのが露伴です。ところが、口の悪い勝海舟が、「今どきの小説」をくさしながら、「学問もあつて、今の小説家には珍しく物識(ものしり)で、少しは深さうだ」とベタほめしたのも露伴です。

〈歩く百科事典、と称された。和漢洋の学識だけではない。諸事百般に通じ、知らない事は何一つ無い。 たとえば宴会での喧嘩の仕方。最初に自分の足袋の爪先に、刺身醤油をぶっかける。畳で滑らない準備。昆布ダシの吸い物のヌルは、箸で梅干しをつまみ、それでかき回すと取れる。お玉で汁をすくいあげ落とす。汁を風に当てると、いい味になる。料理には詳しかった〉

 幸田文さんの随筆を読めば、ハタキのかけ方、雑巾の絞り方といった掃除の作法、はては女の子の遊びや猥談も父から教わったというのです。執筆領域も小説、随筆、詩、評論だけではなく、落語も作れば、笑い話、いろはガルタ、それに「当流人名辞書」といったユニークな辞書や、「努力論」「修省(しゅうせい)論」といった論文の類もものしています。「水滸伝」の全訳は先述した通り。田村俊子のデビューや、平塚らいてうの「青鞜」との縁も密接です。

 昭和12年4月、第1回文化勲章が露伴に贈られます。祝賀会で挨拶に立った露伴は、次のように述べました。「芸術というものは、国家から優遇されて出来るものではない。むしろ圧迫され、虐待されて、立派な作品を生み、遺すものである」――。露伴とは家族同然の付き合いを続けた岩波書店の大番頭格、小林勇が『蝸牛庵(かぎゅうあん)訪問記』に綴っています。

 ちなみに「蝸牛」は露伴の別号で、カタツムリの意。「家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ。昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ」(小林勇、前掲書)

 ところが、この露伴の『二宮尊徳翁』を評し、内村鑑三は「アレはつまらない本です」と一蹴したというのです。いったい何が気に入らなかったのか? この素朴な疑問が本書執筆の動機だったと著者は語ります。

 そしてこの謎をめぐって露伴を改めて読み解くうちに、「露伴文学の根本は、農業かもしれない」。若き日の露伴が足かけ3年、北海道余市に渡ったのは、明らかに「自らを二宮尊徳に擬(ぎ)していた節」があり、その後近代文学に及ぼした影響を考えると、「露伴は、文学の尊徳ではあるまいか」と大胆な推論を開陳します。

〈露伴だけではない。明治人の多くが尊徳にかぶれていたと思う。天田愚庵が次郎長一家と富士の裾野を開拓する精神にも、尊徳の影響を感じる。 面白いのは、愚庵と交遊した者の大半が、露伴に関係がある。正岡子規は露伴を尊敬し、小説家になるべく、書き上げた原稿を露伴に読んでもらった。残念ながら及第点をもらえず、子規は小説を断念したのだが、俳句、短歌の開拓者になった。露伴を通じて尊徳精神を吸収していったのである〉

 こうして「二宮尊徳という大池に溜められた水が、どの方面に流れ潤(うるお)していったか」を、軽妙洒脱に歯切れよく、細かなカット割りをつなぐように、一つの物語に仕立て上げたのが本書です。全篇、まったく意想外の人名が次々に現われることも驚きです。戊辰戦争で両親、妹と生き別れた東北の志士、天田愚庵は、江戸城無血開城を実現した幕臣、山岡鉄舟に紹介されて、清水次郎長と出会います。愚庵の波瀾万丈の人生ドラマに、綺羅星のごとき傑物たちが交差します。

 先述の正岡子規を始めとして、新聞「日本」を創刊した津軽藩出身の陸羯南(くがかつなん)、「高島易断」で有名になる高島嘉右衛門(かえもん)、そして愚庵の一代記をまとめる露伴の親友、饗庭篁村(あえばこうそん)等々。歴史に「埋もれた」活字の中から姿を現わし、談笑し、何ごとかを成し遂げて、やがて人生舞台から退場していきます。

 いずれもサラリと簡潔に描かれ、彼らが織りなす人材山脈に想像が果てしなく膨らみます。

〈人は生き、人は死ぬ。 しかし彼らは書物の中で生きている。書物ある限り、人は死なぬ〉

 なんとも力強い書物愛、読書讃歌ではないでしょうか。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)