村上春樹さんへのインタビューは、五月十一日の火曜日から十三日の木曜日まで、三日間にわたって行われました。
 もしこれがテレビ番組のインタビューだとしたら、それなりの人数のスタッフが必要になってくるはずです。しかし雑誌というのは呆れるほど人手が要らず、ひとりでも取材は可能です。私が持参した機材はオリンパスのICレコーダー一台と、故障したときの補助にソニーのMDレコーダーを一台。それだけでした。
 最終日に撮影にやってきたカメラマンの菅野健児氏も、アシスタントなしのひとり。今回はふだん撮影に使っているデジタル一眼レフも予備で用意しましたが、メインの撮影はモノクロで、カメラはハッセルブラッド、ライティングなしの自然光、と相談してありました。なぜデジタルではなくモノクロフィルムで、しかもハッセルブラッドなのかといえば、今回の村上さんの撮影にはそれがふさわしいのではと何となく思ったからです。

 今から約百七十年前、ハッセルブラッド家はスウェーデンの港町ヨーテボリに貿易商社を創業しました。ヨーロッパ大陸にアクセスしやすい位置にあるヨーテボリは、歴史的にイギリス、オランダ、デンマーク、ドイツなどと交易が盛んでした。ハッセルブラッドはやがてスウェーデンで指折りの貿易商社に成長し、扱う商品のひとつとして写真機材の輸入を始めます。
 創始者の息子で、熱心なアマチュア写真家だったアーヴィッド・ヴィクトル・ハッセルブラッドは、貿易商社の規模が拡大するなかで写真部門の本格化にのりだします。そのとき、アーヴィッドはこう言ったそうです。
「この商売ではお金はあまり儲からないだろうが、少なくとも好きなだけタダで写真を撮ることができる」
 新しい記録メディアとしての写真は、十九世紀末からたいへんな勢いで普及し始め、アーヴィッドの写真部門はさらに拡大、成長を遂げ、二十世紀に入るとまもなく別会社として独立します。そして会社はアーヴィッドからその息子、カールへと引き継がれてゆきます。
 フィルムサイズが6×6センチ判の、最高級カメラの代名詞となったハッセルブラッドを、初めてオリジナルのカメラにつくりあげたのは、創業者から数えて四代目、カールの息子のフリッツでした。フリッツは鳥類学を学び、自然写真の撮影が趣味という内気で静かな男でしたが、カメラに造詣が深く、理想とする機能についての具体的なアイディアを持っていました。一九四八年に発表されたフリッツによる写真機ハッセルブラッドは、独特のフォルムと機能、携帯性、写真のクオリティによって、まもなく高級写真機の代名詞となっていきます。
 ハッセルブラッドによって撮影された写真の名作は数えきれませんが、個人的には『フル・ムーン』(新潮社)をまずあげておきたい。一九六七年から六年間にわたって行われたアポロ計画のミッションに、宇宙飛行士はハッセルブラッドを持ち込み、月面写真など数多くの貴重な写真を撮影しました。その一部は世界に公開されたものの、大多数のフィルムはNASAの低温保管庫に四半世紀ものあいだ眠り続けていたのです。アポロ十一号の月面着陸から三十年という節目に、三万点を超える未公開写真から編集されたのが『フル・ムーン』でした。
 ハッセルブラッドによって撮影された写真は、現実の光と影を鮮明に記録しながら、同時に、撮影した人の個人的な記憶の手触りを、言葉では説明しがたい不思議なトーンで残しています。
『フル・ムーン』に収録された写真も、アメリカの国家プロジェクトを克明に記録したものであるにもかかわらず、どこか個人的で、上等なシルクを身にまとうような、肌に吸いつくぬめりの質感を湛えている。なぜそうなるのか、私はカメラにはまったく不案内なので理由はわからないのですが、しかしハッセルブラッドには、そのような不思議な何かを与える力があるのです。
 菅野カメラマンの所有するハッセルブラッドは、彼の生年と同じ一九七三年の製造番号がついています。テレビ局のカメラマンだった父親が、ムービー・カメラを離れた個人の時間に、趣味で使っていたものです。子どものころ、息子にもなるべく触らせたくないといった様子で大事にしていたのを覚えているそうです。息子がカメラマンになってから、このハッセルブラッドは共有のカメラとなり、やがて父親が亡くなると、形見としてひとりで使うようになります。
 いまはデジタルのハッセルブラッドもありますが、七三年製のカメラでのフィルムを使っての撮影でしたので、昔ながらの現像と焼き付けが必要になります。しかしデジタル化が進んだ新潮社写真部の暗室はすぐに使える状態になく、今回のフィルムは、菅野家にあるプライベートな小さな暗室で、一枚一枚時間をかけて紙焼きにされました。

 五月の箱根は新緑が目にしみるほどあざやかでした。箱根といえば、デビューして間もない頃、村上さんはあるリトルマガジンにエッセイを寄せています。ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を何度も読み返したあと、箱根へ鱒釣りを見に行くことになり、山歩きをし、冷たい渓流に足をつけて、最後にはホテルで鱒の料理を食べる――。箱根のひんやりした空気が行間からそのままこぼれてくるような、渓流の透明な水音が聞こえてくるような文章でした。こんど旅をするなら、箱根がいいなとつよく思ったことを覚えています。
 箱根は東京からクルマで二時間あまり、とくに隔絶された場所ではないものの、まわりが鬱蒼とした緑の山に囲まれているせいか、非日常の気配が濃く漂います。インタビューが行われたのは一九六〇年に建てられた古いホテルです。半世紀の時の層が見えない重なりとなって、ホテルの空気の足もとあたりに澱んでいる。部屋は最新のホテルのような息苦しい密閉感はなく、しんと静かに落ち着いています。夏になると庭園には螢も飛びかい、暗がりの存在感がせりだしてくる場所。
 インタビュー二日目の朝、ホテルのまわりには白い霧がたちこめて、緑の山肌を生きもののように吹き上がり、またかけおりていきました。ホテルの部屋からは、箱根の登山鉄道がゆっくりしたスピードで山をのぼったり、おりてきたりするのが見えます。緑の山に白い霧がかかり、そこを赤い車体が横切ってゆく。夜になると、車体は闇に溶けて、人影のほとんどない白っぽく明るんだ車窓だけが、浮かび上がるように動いていきます。

 やがて天気は回復するものと思っていたのですが、二日目の昼頃からまた雨が降り始め、午後になると重たい雲のむこうで雷が鳴りはじめました。なぜかウグイスの鳴き声も聞こえる。箱根の雷は、林立する建物のあいだに轟く東京の雷とは音の気配がちがいます。あたりの空気をたっぷりと吸い上げて落ちてくる、鈍くて重い響き。それが山にこだまして、しばらく鳴りやみません。
 雷鳴に肩を叩かれたように『1Q84』の青豆とリーダーのシーンが思い浮かびました。インタビューもちょうど『1Q84』をめぐる部分にさしかかっていたところで、なんとも言えない不穏な気配が漂います。村上さんは窓を背にして座っていらしたのですが、何度目かの雷の音に少し後ろをふりかえります。私はリトル・ピープルのことを冗談めかして口にしましたが、何となく笑えない。そこでいったんルームサーヴィスのコーヒーを注文することになりました。休みなく続けていたインタビューにはめずらしい小休止でした。そして、コーヒーポットを前にしてインタビューを再開。気がつけばいつしか雷は鳴り止んでいました。ウグイスがまた鳴き始めます。

 インタビューの初日、村上さんはご自分のクルマを運転してホテルにやって来ました。三日間のインタビューを終えて帰るころには天気もすっかり回復し、若々しい緑の葉はふたたび光を浴びて、雷の気配などどこにもありません。静かな風がわたるなか、村上さんのクルマは峠を下っていきました。
 一九八四年か八五年の夏のこと。村上さんが長期滞在中のハワイに遊びに行ったことがありました。ある日の昼過ぎ、海辺で搾りたてのオレンジジュースを飲んだりしてぼんやりと過ごしていると、村上さんは「ちょっと泳いでくる」と言って、波打ち際へ歩いていきました。膝までの深さになったところで身を投げ出すように海のなかへ入り、沖にむかって真っ直ぐに泳ぎはじめます。村上さんの頭と肩口だけが波間に見えて、その頭がだんだん小さくなってゆく。そのうちにまったく何も見えなくなり、なだらかな海面ばかりが広がります。不安に思いながら、そして単独で何かに向かってゆく姿に圧倒されながら、水平線のあたりを茫然と見ていたことを覚えています。

 私事になりますが、この最新号が書店に並ぶ直前に、新潮社を退社することになりました。次号からは、先輩編集者である河野通和さんが入社し、編集長を受け継いでくださいます。津野海太郎さん、加藤典洋さんのそれぞれ力のこもった新連載もスタートし、「考える人」はこの号で創刊九年目に入りました。
「考える人」を支えてくださるのは、読者のみなさんです。これからも引き続き「考える人」のご愛読を心よりお願い申し上げます。