今回の料理特集、企画と関係なく読んでみたら面白かった、そんな本もありました。たとえば、中公文庫の『檀流クッキング』。九歳で母親が家出してしまったので、やむなく幼い妹三人のために料理を作らなければならなくなった檀一雄は、残されたお父さんに代わり、毎日料理を作ります。それから五十年の蓄積を得て、百種ほどの料理法が紹介されています。
 目次をながめると、カツオのたたきのような和風料理に混じって、ビーフ・シチューといった洋風、朝鮮、中華などが並び、料理の幅が広いのに驚かされます。
 私の母の実家が秋田県の大館なので、「秋から冬へ」の献立、「キリタンポ鍋」のページを開いてみました。キリタンポというのは、比内鶏で採ったスープに棒状の米を固めたものを入れて、いっしょに煮て食べる郷土料理ですが、すごいなと思ったのは、このレシピは、米を固めて焼くタンポ作りから始めます。それを切って鍋に入れるので、キリタンポというのですが、今は、東京はおろか秋田でも、パックになってスーパーで売っていますから、それをわざわざ家で作る人は稀ではないでしょうか。
「お米一升をたくなら、そのうち一合だけモチゴメをまぜる。……できたら、お米は新米がおいしいにきまっている。少しばかり固目にたいて、そのゴハンを熱いうちに、スリ鉢に取り、スリコギでトントン突くのである。……この半つき餅をカマボコの形に杉の棒に巻きつけるわけだが、杉の棒でなくったって、竹の棒でも、栗の棒でもどこからか、棒切れを拾ってくるがよい」
 そうか、割り箸ではどうだろうか。いや太めの棒があったけど、あれならどうだろうか。今秋は、この本片手にタンポ作りにアタックしていそうな気がします。なぜなら、檀先生も言うように「いろんな人々から、あれをつくってみた、これをつくってみた、と聞くのは楽しいことだ」からです。
 最後に、本企画は、知人の滑川海彦さんと下中直人さんと、料理のあれこれについて情報交換した場、フェイスブック「考える料理」ページが、そもそもの発端になっています。滑川さん、下中さん、アイデアをありがとうございました。

 料理取材をすることが多かった若い頃に、北大路魯山人の言葉に出会いました。「日常料理は常に自分の身辺から新しい材料を選び、こみあげてくる真心でつくらねばならない」(『魯山人味道』中公文庫)。まさに至言というべきなのでしょうが、この「こみあげてくる真心」という表現に打ちのめされました。自分はそこまでの気持ちを持てるだろうか、と考えるだけで絶望的な気分になって、せめて真心をきちんと受け止められる人間になりたい、と思いました。
 以来、作り手ではなく、味わう側として「食」を楽しんできました。ただ、真心のキャッチボールというのがそれほど容易でないことにも次第に気づかざるを得ませんでした。実際、魯山人自身が晩年になるにつれ、ますます狷介な性格を募らせていったのは、彼の一途な思いをこめた料理をしっかり受け止めてくれる客がいかに少なかったかということも影響していると思います。食べる人に求められる神経の細やかさも、言い出せばきりがないほど、修練を必要とするものです。
 たかが食べ物で、という人もいるでしょう。実際、作り手と言っても千差万別ですし、味わう側も別に「味道」をきわめようという人ばかりではありません。ただ、何ごとにつけそうですが、味わい上手になることの喜びは代えがたいものです。さまざまな形があるでしょうが、作り手の心づかい、神経の配り方や愛情表現を正確に理解できれば、その食事は忘れられないものとなります。
 料理は芝居と同じだな、と思ったことがあります。食べてしまったら作品としては残らない。どんなきれいな写真もいかに繊細な言葉も追いつかない。ある感動を残して、すっと消えてしまいます。そのはかなさがあるからこそ、一回性のドラマを追求する価値があるのでしょう。たとえいかなるレベルであれ――。
 今回の特集ではいろいろな方から料理に寄せる思いを聞きました。その言葉が料理を改めて考えさせてくれました。
 料理もしない、食べることにも関心がない、ではちょっともったいないですね。いまの時代にあえてこの特集を組んでみたゆえんです。