国内で旅に出かけたときは名所旧跡だけでなく、目的地の周囲に古戦場がないかを確かめます。たとえば、東海道新幹線から乗り換えて在来線を途中下車し、関ヶ原に足を踏み入れると、ここが石田三成の陣地、そこが東軍の前線というように実際の地形を感じながら、土地に残る歴史の記憶に浸ることができます。しかし、今回の取材先であるアメリカ西海岸は、なにぶん、他国に国境を侵されたこともなく(ずっと南の方でメキシコの義賊、パンチョ・ビリャがニューメキシコに攻めてきたことがあるくらいです)、東海岸のボストン、レキシントン、ヨークタウンのような独立戦争、あるいはゲティスバーグのような南北戦争の戦場もありません……。でも、今から四十年前、一九六〇年代の全米でも学生運動の炎が最も燃え盛ったカリフォルニア大学バークレー校があるバークレーには、大学紛争や市民運動といった「権力」との闘いの舞台が残っています。

 まず1964年の「フリー・スピーチ運動(FSM)」。キング牧師の公民権運動の高まりを受けた、大学所有の建物での政治活動を禁止する大学側の処置への抗議活動です。同大学の哲学科の学生マリオ・サビオを主人公にフォーク歌手ジョーン・バエズも参加して、学生たちが集まったのが大学前の目抜き通りテレグラフ・アヴェニューから大学の正門、セイザー・ゲートを入ったところにあるスプラウル・ホール前です。最大級の盛り上がりを見せた11月から12月にかけてホールを占拠して籠城しましたが、12月に入ると警官隊が突入して鎮圧されました。当時の学生の目には、イオニア式の列柱を正面にしたこの立派な建物は、抑圧的で権威主義の象徴に映ったのでしょう。しかし、今は強者どもが夢のあと。手前の噴水が当時と同じく静かに流れています。

 さて、FSMが「バークレー冬の陣」だとしたら、夏の陣は5年後の1969年4月からの「人民公園(ピープルズ・パーク)の闘い」です。大学が体育施設用に所有していた空地に「市民の公園」を建設することがアングラ新聞で提案され、先のFSMのメンバーも加わって木や草が植えられました。しかし、5月15日、撤去に来た二百五十名の警官隊と学生の武闘派が衝突。石、瓶、鉄パイプで戦う六千人のデモ隊に対し、はじめ警察は催涙弾で対応しましたが、劣勢だった警官側がショットガンで応戦して、死者一名を含む重傷者が続出しました。これが「血の火曜日」と呼ばれる惨事です。その半月後、3万人のデモ隊が大学に集結し、二百五十名の州兵が護る公園周辺へ向います。その時に用意されたのが一万本の雛菊でした。その雛菊は公園を囲んでいた州兵たちのライフルの銃口に挿されて、「ベトナム反戦運動」というと私たちが思い浮かべるあのシーンとなりました。

 一連のバークレーでの出来事が、テレグラフ・アヴェニューと人民公園跡地に接するハステ・ストリートの交差点にあるCD専門店の外面に壁画として描かれています。左側がFSM、中が人民公園、右が市街戦、このような反体制的な雰囲気を伝えるのに、壁画という表現方法は格好のメディアといえましょう。

〈参考文献〉越智道雄『アメリカ「60年代」への旅』朝日選書