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『極北の動物誌』
 
ウィリアム・プルーイット/岩本正恵訳

 星野道夫さんが長期にわたってフィールドでの撮影に入るとき、必需品のなかには必ず本がありました。オーロラ撮影のため厳冬期のアラスカ山脈で約一ヶ月間単独キャンプをはり、凍傷にかかりながらもシャッターチャンスを待ち続けた時間の中で、灯油ランタンの暗い光の下、繰り返し読んだのはアルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』でした。南極で遭難したイギリス人探検家シャクルトンと二十八人の隊員たちが十七ヶ月にわたる漂流の果てに遂に奇跡の生還を果たした、その旅の一部始終が綴られた本です。
 星野さんは生前に『エンデュアランス号漂流』が翻訳され日本で紹介されることを切望していました。しかし翻訳が刊行される二年前に、カムチャツカでの取材中クマに襲われ急逝されました。1998年、翻訳書として刊行された『エンデュアランス号漂流』は多くの読者を獲得し、今もなおロングセラーとなっています。
 そしてもう一冊、星野さんが自身の著書のなかで「名作」と呼び、その内容にも何度となく触れていた本があります。それがこの『極北の動物誌』(ウィリアム・プルーイット著 岩本正恵訳)でした。
 著者のウィリアム・プルーイットは、1950年代の末に突然のように立ち上がったアラスカでの核実験場開発計画を阻止し、そのためにアメリカを追われることになった動物学者です。冷戦時代の核開発競争が激化していたこの頃は、一方で自然環境保護の重要性に対する意識の芽生えが急速に広がり始めた時代でした。1962年にはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が刊行されています。本書が刊行された1967年は、泥沼化したベトナム戦争でアメリカ軍による枯れ葉剤が使われた年でもあります。
 プルーイット氏は核実験場開発計画を阻止したためにアメリカでの職を失いカナダに移住します。そこでタイガ生物研究所を設立し、極寒の地の生態系について研究を続けることになります(アラスカ州政府から正式の謝罪を受け名誉を回復したのはほんの十年前、1993年のことです)。
 その核実験場開発計画とプルーイット氏については、星野さんの著書『ノーザンライツ』のなかで詳しく触れられています。また、『極北の動物誌』について、星野さんはこのように書いています。「“Animals of the North”は生物学の本というより、アラスカの自然を詩のように書きあげた名作であり、宝物のように大切にしていた。この本全体に流れている極北の匂いに、どれだけアラスカの自然への憧れをかきたてられただろう」。
 本書を読むと、いかに極北の自然が豊かで脆いものか、ということが見えてきます。それは今を生きる私たちにとっても重く響いてくるものです。
 星野さんが学生時代の1973年、三ヶ月間滞在したアラスカの海沿いの小さな村シシュマレフも、地球温暖化による水位上昇によって今や水没寸前の状態となっています。海に呑み込まれようとしている故郷から離れざるを得ない村びとたちの姿が新聞やテレビのなかで伝えられたばかりです。また永久凍土もアラスカの各地で溶け始め、地形や生態系まで大きな影響を受けているという報道もありました。もちろんそれは私たちにとっても対岸の火事であるはずもないのです。
 もし星野さんがその魅力を訴え続けなければ世に出なかったはずの二冊の本。この二冊が星野さんをどのように動かしたのかを知るのはもちろんのこと、現在の私たちにとっての意義も測り知れない、ということをあらためて思います。
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