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田中聡『不安定だから強い―武術家・甲野善紀の世界―』
(晶文社)


 緊張して人前を歩くと、右手右足が同時に前へ出てしまうことがあります。人はそれを見て思わず笑います。しかし、それはそもそも本当におかしいことなのでしょうか?

 スズメはぴょんぴょんと両足を揃えて地面を移動します。ニワトリは左右交互にスタスタと歩きます。うさぎの走り方と馬の走り方では同じ哺乳類でも足の運び方はずいぶん違っています。生き物の歩き方にはたしてスタンダードなものがあるのでしょうか。こうして考えると、はなはだ怪しい感じがしてきます。

 その生物の一部である人類が、両足で立って歩き始めた歴史は、生命の長い歴史のなかでは、極めて最近の出来事に過ぎません。理学療法の専門家である整形外科の医師によれば、そもそも人間に腰痛が多いのは、人類が両足で立って歩き始めてまだ日が浅いので、立って歩くということ自体にまだ相当無理があるための必然的な病なのだ、とも言います。

 歩き方に正解はあるのか? 本書はたとえばそのような疑問に対して、まったく新しいアプローチによって意外とも言える答を用意する大変興味深い本です。

 巨人の桑田投手の奇跡的復活を導いた陰の功労者として注目を浴びる古武術の師範、甲野善紀(こうのよしのり)氏(甲野氏には養老孟司氏との対談による共著も二冊あります)。「身体の動き」や「身体感覚」という、言葉による表現や再現がなかなか難しい奥行きの深い世界を、著者は辛抱強く丹念に経験し、じっくりと明らかにします。

 著者の田中聡氏は、 自らも数年前から甲野氏の稽古に参加し、実際にからだを動かしながら自問自答を繰り返しつつ、その真髄をライブ感覚で伝えようとする「身体ノンフィクション」とでも言うべきジャンルを開拓することに成功しています。

 普通に歩く姿勢だと私たちが考えているものが、果たして本当に「普通」で「合理的」で「正しい」歩き方なのか。本書は根本的な疑問を投げかけます。読み進めるうちに、私たちがどこかで「そういうものだ」と感じている身体感覚がじつは脆くも簡単に崩れ去るものかもしれない、と気づかされます。

 もっとも身近な自然であるわたしたちの身体。この身体が、これほどの可能性を秘めたものなのだということの驚き。また、甲野氏の技や術は日々更新しており、変化している、という事実にも氏の実践する古武術の革新性を感じます。

「武術」という言葉から、「忍耐」や「試練」「過酷」「男くさい」「右翼的」などの連想がわく読者の方も多いかと思います。しかし、甲野氏が実践する「古武術」にはそんな紋切り型の発想を軽々と飛び越えてしまう自由さがあります。本書が問いかけるものは、固定観念に縛られた男性読者より、女性読者のほうがあるいは腑に落ちるのではないか、という気さえしてきます。

 本書を読み終えると、いや読み進める途中から、自分のからだをあれこれと動かしてみたくなってくる……「あたま」でも「こころ」でもない何かを言葉によって刺戟される珍しい本だと思います。
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