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多田富雄『懐かしい日々の想い』(朝日新聞社)


 科学者はあくまでも理知的に明解さをもとめる人々であり、そしてときに世間知らずである――そんな紋切り型のイメージが私たちのどこかに潜んではいないでしょうか。「理科系人間」に対する誤解や思い込みは実は文科系人間の嫉妬や劣等感の単純な裏返しなのではないか、と感じることがあります。

 しかし、寺田寅彦や湯川秀樹といった人々を思い浮かべてみれば、優れた科学者とはすなわち「文人的」な魅力も兼ね備えた人のことである、と定義したくなります。彼らが残した文章の仕事には独特の色合いや深度があり、文人とは違う種類の精神の自由さ、あるいは人間の精神に対する透徹な視線を感じ取ることができます。

 そのような優れた科学者の系譜に、『免疫の意味論』などの著書をもつ免疫学者の多田富雄さんも連なるでしょう。本書『懐かしい日々の想い』は、旅先で、医療の現場で、書斎で、そして記憶の底に身を置きながら、浮かび上がってくる想いを書き留めたエッセイ集です。

 エッセイ集のあとがきは、このように書き出されます。

「このエッセイ集は、私の最後の本になるはずだった。あるいはもう、私の著書は出ないはずだった。そのわけはこうである。」

 多田さんは二〇〇一年の五月に旅先で脳梗塞で倒れ、死の淵を彷徨いました。奇跡的に生還したものの、半身不髄となり、声を失ってしまいます。

 その後の多田さんの想いと恢復への道のりについては、「文藝春秋」二〇〇二年一月号に発表された手記をぜひお読みいただきたいと思います。絶望と希望のあいだを行き来する多田さんの姿は、感情の起伏はあってもその内実には虚飾も誇張もない、きわめて端整な文章によって、見事なまでに等身大のまま、私たちの前に立ち現れます。

 本書を通読しながらあらためて思うのは、多田さんの文章の魅力です。「端整」と姿かたちだけで形容するだけでは言い表せない魅力がある。それは何と言えばいいのだろう、と考えながら、ふと感じたのはその文章の呼吸です。多田さんの文章は「早口」ではないのです。結論にむかって急がない。立ち止まってしっかりと見据えている。呼吸が深い。どこかで無理や限界というものを知っている。多田さんの文章にはそんな気配があります。

 多田さんには来る日も来る日も実験に明け暮れた日々がありました。それは孤独な作業であり、明確な結論がでるかどうかもわからない、忍耐の要求されるものだったはずです。「相手」はこちらの都合や希望に添ってくれるものではありません。延々と実験を続けても、予測した結果がでなければ、支払われた努力や労力は報われず、誰にも知られることもなく、その実験の経緯はどこかへ運び去られ、片付けられ、忘れ去られてしまうのです。

 多田さんの文章に潜んでいる静かな呼吸のリズムは、ひょっとするとそのような日々が磨いたものなのではないか、と感じます。科学が理知的であること、明解であることを目指しても、報われずに終わることは数えきれぬほどある。足し算を続けていっても、結果がゼロになりうるのが科学です。仮に世の中が経済至上主義にあまねく覆われることがあっても、経済原則によって科学が運営されれば、報われずに終わることは許されず、明らかな悪と見なされ、科学はまちがいなくそこで停滞するでしょう。先日のスペースシャトル事故の報道を見れば、そもそもの宇宙開発とは何かという歴史的な問題をとりあえず措くとしても、経済原則にのっとった大幅な予算削減が、悲劇的な事故の伏線となっていたことは明らかではないかと感じます。

 人は、一般的に、結果を保証されない仕事に就くことをあまり望まないものです。しかし科学者には保証される結果は用意されていません。そのような環境に長く身を置けば、おそらく人は何ものかに対して謙虚にならざるを得ないのではないか。科学者の文章の魅力はそのようなところからも生まれてくるのかもしれない――多田さんのエッセイ集は、そのようなことを考えさせてくれる貴重な一冊だと思います。
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