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『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
J・D・サリンジャー 村上春樹訳(白水社)


 私が『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは1975年。高校生の頃です。それから立て続けにサリンジャーの他の作品、『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとゾーイー』、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア─序章─』を読みました。

 その後、現在に至るまで、ときどき本棚から引っぱり出して何度となく読み返したのは、『ナイン・ストーリーズ』と『フラニーとゾーイー』の二冊です。『ライ麦畑でつかまえて』(村上春樹訳版の題名は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)は、私にとってどこか一期一会のような作品で、強烈な印象を残した作品であったのにもかかわらず、もう一度読み返そうという気にはならなかったのです。

 それは主人公のホールデン・コールフィールドの純度の高い毒気のようなものに当てられたせいかもしれません。読んだ当時はホールデンとほぼ同世代でしたから、その心理の動きかたがあまりに他人事ではない感じがし、身につまされたのだと思います。『ライ麦畑でつかまえて』がいまもなお世界中で読み継がれているのは、「ここには自分の気持ちが書いてある」と思わせる力を持っているからでしょう。

 しかし、二十八年ぶりに読み返してみて、びっくりしました。ホールデンがこれほど「したたか」であったとは!

 ここではストーリーの紹介はしませんが、ホールデンにとって人生最大の危機に直面した二日間の出来事が彼の言葉によって語られる『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、実に多彩な出来事に満ちていて、その出来事じたいも、もとはといえばホールデンが種を蒔いたことばかりなのです。ニューヨークでの行動もきわめて大胆。他人とコミュニケーションをとることを恐れるどころか、激しいほどに求めています。

 読み返す前の私のなかのホールデン像は、社会に適応できず、大人になりきれない繊細な「青年になりかかりの少年」、というものでした。今で言えば、「ひきこもり」的な風貌もイメージしていました。しかしホールデンはあぶなっかしいところはあるものの、そんなイメージよりも遥かに強い。正しいこと、正しくないこと、美しいこと、美しくないことへの価値判断もホールデンはしっかりと持っています。

 再読して思ったことはもうひとつ。訳者である村上春樹さんの初期の小説に登場する、主人公「僕」の友人の「鼠」が、まさにホールデンと精神的な兄弟ともいえる存在だったんだなあ、ということでした。村上さんの訳であるがために、ホールデンが「鼠」みたいなのか、あるいは「鼠」がそもそもホールデン的な存在なのか。そのあたりは謎ですが、村上さんの小説じたいにも、サリンジャー的な世界が含まれていることはたしかなようです。いままであまり考えたこともなかったのですが、今回はそんなことを強く感じました。村上さんの初期の小説を読み返したくなりました。

 ディテールですっかり忘れていた部分もいっぱいあります。小説の後半に登場する「もし次の戦争が始まったら、爆弾の上に進んでまたがってやろうと思う」というところは、スタンリー・キューブリックの映画「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」のラスト近くの鮮やかなシーンに重なります。やはりキューブリックの「フルメタル・ジャケット」に描かれる自殺する兵士など、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に登場してもおかしくない人物でした。キューブリックも当然「ライ麦畑」を読んでいたでしょう。ちなみに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が刊行されたのは1951年。「博士の異常な愛情…」は1964年の作品です。

 また、著者の意向によって本には収録できなかった訳者解説が「文學界」6月号に掲載されています。サリンジャーという作家を考える上で欠かせない興味深い論考です。同業者でなければ書くことができないような視点が新鮮です。こちらもぜひお読みになることをお勧めいたします。

 ホールデンと同世代にあたる現在の日本の十代の読者はこの小説をどう読むのでしょう? もはや四十代となってしまった私は、今の十代の読者の感想を無性に聞きたくなりました。
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