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『祖国とは国語』藤原正彦(講談社)


 数学者である藤原さんの本を一冊でもお読みになったことがあれば、あえて説明の必要はないでしょう。藤原さんのエッセイほど面白いものはありません。読んでいるうちに藤原さんと一緒に考え、怒り、思わず吹き出してしまう。読む者の知性はもちろんのこと、私たちのなかで眠っていた「野蛮な」情動まで刺戟されるのです。

 数学とは冷徹な世界を扱うもの、というイメージがあります。しかし、そんなことはないのです。慌しくも平凡な日々の暮らしのなかで、私たちの「心」は飼いならされてしまい、「心」は澱が沈むように反応が鈍くなっているのかもしれません。数学者は誰も解決していない難問に一対一で向き合いながら、自分の頭の働きを適当にやり過ごすことなどできないのです。数学という抽象性と格闘するうちに、いつのまにか自分の「心」の深いところにまで降りてゆく、ということもあるのだと思います。

 数学者の心をめぐる本には、『フェルマーの最終定理』や『ビューティフル・マインド』そして、藤原さんの『心は孤独な数学者』などの名著がたくさんあります。数学が大の苦手だった私ですが、数学者の心の旅を追う本に、なぜかとても惹かれます。

「心」の問題や「教育」の問題について真情溢れる文章を遺した数学者の先人には、岡潔という大数学者もいました。岡潔氏には小林秀雄氏との対談による名著『対話 人間の建設』もあります。どうやら、数学者とは、人間の根本問題に向き合うような、きわめて人間くさい仕事なのかもしれません。

 本書には、大きな危機感に背中を押されるようにして筆を進めたのであろう文章が少なからず収録されています。それは国語教育であり、英語第二公用語論であり、経済第一主義であり、アメリカによるグローバリズム問題です。いずれも、本当に大切なものは何か、という問いが含まれています。世の中の風潮に流されるうちに、真実を見失う。目先の利益を追うあまり、本末転倒の袋小路に追い込まれる。そんな事態に目をつぶることなど藤原さんにはできません。

 しかし、藤原さんには大きな弱点があります。それは家族です。とくに奥様との「闘い」においては、ほぼ例外なく軍配は奥様に上がっています。戦う前に白旗を揚げているのではありません。藤原さんは果敢に戦いを挑むのですが、なぜか決定力に欠け、闘いの論拠にも不備な点があるのです。奥様は鋭くその弱点に斬りこんできます。そのあたりを描く藤原さんの文章は、ほとんどそのまま落語になるのではないか、というほど面白く、藤原エッセイが病みつきになった人は、このあたりの面白さにやられている人が多いと思います。

 本書の前半は、朝日新聞に連載したコラムが収録されており、藤原家の構成員も登場します。このあたり「藤原節」の小話集という趣でしょうか。本書以外で、藤原家を描いたエッセイを一冊選べと言われれば、『遥かなるケンブリッジ』が白眉だと思います。また、エッセイを一篇だけ選べと言われれば、私なら断固「苦い勝利」(『父の威厳 数学者の意地』新潮文庫所載)を挙げるでしょう。

「考える人」次号には、名著『心は孤独な数学者』にも通じる、今後の藤原さんの大きな仕事へ繋がるであろう「数学者と戦争の物語」を描いた「暗号エニグマをめぐる熱い闘い」が掲載されます。こちらもぜひお読みいただければと思います。
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