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『理想なき出版』
アンドレ・シフレン著、勝貴子訳(柏書房)


 先日、ヒラリー・クリントン自伝が初版百万部、契約料が九億円以上という派手な数字で話題を集めました。日本では考えられない「大商い」の印象ですが、しかし翻訳書の仕事も担当してきた私の経験からすると、ここ五、六年にわたってアメリカの出版界は全体として低迷しているのではないか、と感じます。そんななかでもスティーブン・キングやジョン・グリシャムあたりでは初版は二百万部を上回ることもありましたから、今回の初版百万部という数字はそれほど桁外れの驚くべきものでもないのです。

 そのスティーブン・キングも、もう小説は(書いたとしても)発表しない、と言いだしてみたり、グリシャムもアメリカ五〇年代の南部を舞台にした地味な作品を書いてみたり(最近はまたかつてのスタイルに戻りましたが)、両者ともに微妙な寂しさを漂わせています。その一方で彼らを押しのけるようなパワフルな新人が目白押しというわけでもありません。「ハリー・ポッター」シリーズは爆発的に売れますが、しかし作家はイギリス人。アメリカ人によるいわゆる「メガ・ヒット」作品は以前よりも少なくなったような気がします。

 仕事上で知り合ったアメリカの編集者や海外版権担当者が、突然解雇されたり、他の出版社に移る話は珍しくもありません。出版社の合併、買収話も「またか」というぐらい次々と伝わってきます。ドリームワークスが映画化権を取得したというだけで(つまり映画化されない場合もあるのに)巨額の版権料を提示し合う熾烈な争奪戦も、いつの間にか沈静化しています。いったいアメリカの出版界はどう変わってきているのでしょうか?

 まさにその渦中で辛酸を嘗めてきた出版人による本書を読むと、アメリカの経済至上主義が出版にもたらすさまざまな問題のありかが具体的に見えてきます。著者は「良書」を刊行する書籍出版社として名を馳せた「パンセオン」の元社長で、後に親会社のオーナーの方針と対立して独立した編集者です。

「パンセオン」はアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈り物』、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』、スタッズ・ターケルの『仕事!』……等々の名著を刊行しています。アメリカ人ならずとも英語圏の読書人なら、知らぬ者のない老舗出版社のひとつです。

 しかし、パンセオンはアメリカの大手出版社ランダムハウスに買収され、そのランダムハウスのオーナーも次々と交代するなかで、派手なベストセラーや派手な売り上げとは一線を画すパンセオンの編集方針には、しだいに様々なプレッシャーがかけられるようになります。そのあたりのなりゆきを、歯に衣着せず具体性と説得力のある正確な記述で追っていくさまは、誤解を恐れずに言えばとてもスリリングであり、読ませます。

 先日、日本の出版関係者の招きでシフレン氏が来日し、何社かの編集者が集まって昼食をともにしながら日米の出版事情についての話し合いの場がもたれ、私も参加しました。一九三五年生まれのシフレン氏は、静かに淡々と話すタイプの人でした。出版とは何か、という理念を持ち、何よりも本を愛する気持ちに溢れた典型的な出版人、いや、もはや「古典的な出版人」と言い換えたほうがいいかもしれない魅力的な人物でした。

 海外版権取得のための出張では様々な出版社の人と会います。もちろん例外はあるものの、概して大手出版社の海外版権担当者とのミーティングは型どおりで、面白みがありません。何しろ去年までは別の大手出版社にいた担当者が、今年はライバル関係にあるやはり大手出版社の海外版権担当になっていたりもするのです。もちろんキャリアアップの転職も多いので、移籍が悪いわけではありません。ただ、ときおり担当者の説明のしかたがあまりに「型どおり」だなあ、と思うことも少なくないのです。

 ところが、巨大メディア資本の傘下に入っていない独立系の中小出版社とのミーティングでは、「ところで、あの小説はチェックした?」などと、他社で扱う新作を教えてくれたりもするのです。これは、本好き同士の連帯意識がなせるわざ、だと思うのですが、そんな瞬間に編集の仕事に携わる喜びを覚えます。小さな出版社がすべて善である、とはいいませんが、しかし、本当の本好きが、熱意を持って自分の仕事をしている、そんな姿に出会うことが少なくないのです。

 本書を読んでつくづく思うのは、出版という仕事は本来的には中小企業的なものなのではないか、ということでした。巨大メディア資本のもと、売り上げと採算を第一に考えた組織化をめざすのは、どこかに無理があるのではないか。海外出張のミーティングで渡される大手出版社の出版予定をまとめたリストは厚手なのですが、にもかかわらず、どこかに「薄い」ものを感じるときがあります。高名な小説家やヒラリー・クリントンの著書のような話題作はたいてい大手出版社から刊行されますが、リスト全体を見渡すと、どこか大味な印象がぬぐえません。

 最近アメリカでは、ウォル・マートなどのスーパーマーケットや新興の量販店が、話題作やベストセラーだけに絞って、従来の書店での店頭価格よりも安く(はなはだしい場合は半額近い値段で)、新刊書を売り始めています。安く買えるのは読者にとっては朗報ではあります。しかし、この新しい潮流が果たして今後どのように出版界全体を変えてゆくのかについて、明るい顔で語る出版人はいないようです。イラク戦争ではありませんが、アメリカの出版界のあり様は、どこか荒っぽい展開になってきたと感じます。

 あらゆる局面で、アメリカの潮流から日本は無縁ではありえない時代だと思います。本書を読み進めながら、これは対岸の火事とはとても思えないという心境でした。出版関係者でなくとも、本好きの方々には本書はぜひお薦めしたいと思います。出版人の「夢と現実」とはこういうものか、ということがおわかりいただけるのではないか、と思います。
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