Kangaeruhito HTML Mail Magazine 035
 

『“シンプル”という贈りもの 
~アーミシュの暮らしから』
ビル・コールマン著 青山南訳
(クロニクル・ブックス日本版)


『刑事ジョン・ブック/目撃者』(ピーター・ウィアー監督)という映画をご覧になったことのある方なら、今もなお電気や機械文明に頼らない暮らしを送る、アメリカのアーミシュの人々を印象的に覚えていらっしゃるのではないかと思います。私も、映画というフィクションを通じてとはいえ、アーミシュの暮らしを映像で垣間見ることができたのはこの時が最初でした。

 いっぽう本書は、肖像写真家だった著者が50歳の時に、たまたま前方を走っていたアーミシュの馬車の車輪の修理を手伝ったことから、彼らとの交流が始まり、以来25年に及ぶ時間の流れのなかで少しずつ撮影された写真を集めたものです。

 便利な機械文明を取り入れない暮らしを送るためには、機械文明の申し子である一般的な現代人がアーミシュの村に歓迎されないのは当然のことでしょう。映画『刑事ジョン・ブック』の主人公も、アーミシュの村に匿まわれながらも、「招かれざる客」として村に軋轢と波紋を広げます。

 この写真集が希有な印象を与えるのは、撮られているアーミシュの人々が、著者ビル・コールマンに心を許し、心を開いているからだと思います。とりわけ子どもたちの表情の美しさはどうでしょう。彼らは著者を受け入れ、信頼しているのです。そうでなければ、このような表情の写真を撮ることは不可能だったでしょう。「信仰」を理由にするだけでは説明しきれない子どもたちの清澄な視線はどのようにして育まれたのでしょうか。

 そしてもうひとつ強い印象を残すのは、彼らの裸足の姿です。子どもたちをはじめとして、彼らは実によく裸足で歩き、働きます。そして「裸足」といえば、私は二人の人を思い出します。ひとりは、ターシャ・テューダー。アーミシュほどではないにしても、やはり前時代的な生活をアメリカで続けている女性画家です。彼女もやはり、裸足で自分の家や畑のまわりを歩いています。

 もうひとりは、星野道夫氏の著書にしばしば登場する、アラスカ・フェアバンクスの住人、ビル・フラーです。彼は、寒い秋の張り詰めた空気のなかでも、裸足で自転車を漕ぎながら友人の家を訪ねます。ターシャも、ビルも、誰に命令されたわけでもなく自然に裸足で歩いているのです。それは、ドストエフスキーの小説に登場する人々が大地に口づけをするように、言葉にはならない信仰の身体表現のひとつとして、意識してか無意識でか行われている習慣なのではないかと思います。

 私たちも子どもの頃は裸足になって地面を歩いたりすることがありました。田植えの体験授業で、裸足で入った水田の泥の感触。真夏の昼に草いきれの立ち上る芝生の上を歩くちくちくした感じ。子ども時代でなくとも、夏のプールで、あるいは海辺で、私たちは忘れていた裸足の感覚を呼び覚まされることがあります。

 写真集を見ているうちに、裸足で歩いてみたくなってきます。それもコンクリートやアスファルトではない、柔らかな土の上を。

 映画『刑事ジョン・ブック』では、アーミシュの村の人が、普通の町の人間にからかわれ、蔑まれるシーンが出てきます。一般の現代人にとって、アーミシュの暮らしぶりは時に理解を超える「変なもの」として映るのでしょう。変なもの、理解できないものは排除しようとするのが現代の社会のあり方です。また映画の中では、村人どうしの微妙な感情のさざなみや対立も描かれて、彼らの暮らしが、単に浮き世離れした美しいばかりでもないことを伝えていました。

 著者ビル・コールマンが冒頭で綴るアーミシュの人々についてのエッセイと、巻末にある訳者・青山南氏の解説も、抑制された文章によって簡潔にアーミシュの人々の横顔を伝えてくれます。そして、映画『刑事ジョン・ブック』を未見の方には、ぜひ一度ご覧ください、とお勧めします。ハリソン・フォード主演の映画のなかでも、特筆すべき傑作ではないかと思います。
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