Kangaeruhito HTML Mail Magazine 036
 汚い机

 雑誌が刊行されると、印刷所から原稿が返ってきます。最近は手書きの原稿はほどんどありませんが、あったとしても編集部員がパソコンに打ち込みデータ化した上で入稿しますので、生原稿が出版社と印刷所を行き来することは滅多にありません。それでも、イラストレーションやカラーポジフィルムなどは貴重原稿として返ってきます。

 原稿の返却は編集者にとって大切な仕事のひとつです。毎号校了のたびに返却するのが原則ですが、連載が単行本にまとまることが決まっていて、そのまま単行本でも使わせていただく場合には、連載期間ずっとお預かりすることもあります。

 ところが、本当はこんなことがあってはいけないのですが、なんとなく原稿保存のファイルボックスやロッカーに保存されたままでいる原稿も、ないわけではありません。「今度お会いするときに直接手渡そう」とか「手紙をつけて返さなきゃ」等々それぞれ理由はあるのですが、保管されたまま半年経過、というような事態も起こります。

 作家やイラストレーターは個人でやっていらっしゃる方がまだまだ多く、返ってこない原稿の返却の催促をテキパキとビジネスライクにしてくる、ということがほとんどありません。催促がなければ返却が滞る、ということじたい、編集者の怠慢なのですが……。そういえば、以前は長編小説の生原稿などを返却する際に、作家の希望もあって、製本してお返しするというようなこともありました。

 作家の生原稿が古本屋に高値で売りに出されていることがあります。これは、編集者が担当作家から「仕事が終わった記念に」生原稿を進呈され、その後なにかの事情でその編集者が手放した結果、売りに出される場合が多いはず、と信じたいのですが、しかし、実態はすでに申し上げたとおりで、編集者がなんとなく原稿を預かったままでいて、その後、返すに返せなくなって結果的に私物化してしまい……というケースもあったのではないか、と邪推します。もちろん「なんとなく」や「返すに返せない」には弁解の余地はありません。

 難しいのは、担当作家から原稿を贈られた場合です。贈られたことを証明するものは何もないからです。口約束にすぎませんし、そういうやりとりがある場所は作家と編集者が一対一というケースが多いはず。いわば密室の出来事です。私が聞いた話では、昔、ある編集者が、作家から生原稿を記念にと頂戴することになった際、「先生、これは○×君にプレゼントしたものだ、と一筆書いていただけませんか?」と頼んだそうです。賢明といえば賢明なやり方ですが、作家が鼻白んだ可能性もおおいにあるはず。

 私が入社した二十一年前は、まだまだ原稿は生原稿がほとんどでしたし、ファクスですら一般的ではありませんでした。「考える人」で連載してくださっている玉村豊男さんが二十年前に軽井沢に移住された際、必要に迫られて買ったファクスが一台百五十万円もした時代です。それが今では、メールでのやりとりにまで「発展」しているのですから、光陰矢のごとし。二十年前は、安部公房氏が書下ろし長篇をフロッピーに入れて編集者に渡した、ということが珍しいことのように言われた時代でもありました。

 ファクスが普及し始めた頃に始まり、ワープロが全盛になってますますその傾向が強くなり、原稿が添付ファイルとしてメールで届くようになって決定的になったのは、「原稿をいただくことの恐ろしさ」がどんどん消えてしまったことです。作家の家を訪ねて生原稿をお預かりして帰社する際の晴れやかな気持ちと「無くしたら大変」という緊張感。本当は、メールでいただいても同じ気持ちでなければおかしいのですが、そこはやはり、どこかに「オリジナル」の同じデータは作家のもとにある、という無意識が働いているに違いありません。

 著作集が現在刊行中の星野道夫さんが、十年以上前に著者校正のために来社されたとき、愛用の万年筆からインクが漏れてしまい、星野さんの布のバッグとジーパンが青く染まってしまったことがありました。作家といえば万年筆が欠かせないイメージでしたが、今はほとんど見られなくなりました。星野さんの原稿は万年筆による横書きが多く、少なくとも新潮社でいただいた原稿は最後まで手書きでした。アラスカからファクスで届く原稿は、原稿用紙の罫線が消えた横書きになるので、どこか手紙のような気配になり、「遠くからやって来た」という印象の強い、味わいある原稿でした。しかし、もし星野さんとメールのやりとりができていたら、それはそれで面白かっただろうな、と思ったりもするのですが……。

 さて、最後に、「原稿の返却についての考察」をしたからには、正直に書かねばなりません。偉そうにいろいろと書いている「私」はどうなのか、ということです。実は「考える人」夏号の原稿で私が担当しているものについて、まだ皆さんに返却できていません。この月曜日に「単行本までまとめて保管しておくもの」と「返却すべきもの」を仕分けするところまでやって、やはり「なんとなく」保管ロッカーにしまったままなのです。

 ついでに告白しますと、私の机の周辺は乱雑きわまりないものであり、いろんなものがいろんな場所に積み上がっていて、どこから崩れ落ちてもおかしくない様相を呈しています。Plain Livingを標榜する「考える人」の編集者にあるまじき状態。すみません。

 こうしてみると、返却が遅れたり、滞ったりするタイプの編集者は「片付けられない人」なのだと思い至りました。いやいや、それではいけない。なんとかしなければ。今月中には必ず……。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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