Kangaeruhito HTML Mail Magazine 044
 文字の大きさ

 田舎で慣れない畑仕事を手伝っていると、手も足も腰もだんだん重くなって、しゃがんだまま、かがんだままの姿勢が続かなくなります。しゃがんだ姿勢は腹部に蓄積された体脂肪も圧迫し、これもまた結構辛い。限界になるとウーンと唸りながら立ち上がり、腰に手を当てて背を伸ばします。目の前のせいぜい二十センチ以内だった視界も地べたを離れ、遠くの林や空の雲、山の稜線のあたりへスーッと伸びていきます。視線が到達する先は、たぶん十キロや二十キロのかなた。口は半開き、頭は空っぽ。帽子をかぶった頭もTシャツも汗でびっしょり。眼鏡には、地面に向かって作業をしていたときの汗が落ちています。泥だらけの手ではどうすることもできません。

 農業を営む方々には眼鏡を着用している人が少ないのではないかという気がします。私の睨むところ、この二十センチと二十キロの間を視線が行ったり来たりすることによって、知らず知らずの間に、目のピント調整が良好な状態に保たれているのではないかと思うのです。もちろん都会で会社員生活をしている人に較べれば紫外線にさらされる時間は長いでしょうし、土ぼこりも目に入るでしょうし、かならずしもいいことずくめではないかもしれません。が、視力に限っていえば、遠方を見晴るかすことの少ない都会生活は、近眼を生みやすい環境なのではないかと実感します。

 最近は、新聞も本も活字がじわじわと大きくなる傾向にあり、昔買った本を久しぶりに開くと活字の小ささに驚くことがあります。古い新聞も同じです。小さい文字が読みにくくなるのは老眼がきっかけであることが多いはずですから、人間の暮らしの都市化が大活字を生んだとは短絡できないかもしれません。ではありますが、やはり近視眼的な日常空間に生きることと、大活字化はどこかで繋がっているのではないかと怪しんでいます。

 もうひとつ。パソコンの画面上の文字は、たとえ10.5ポの大きさであっても小さくて読みにくいと感じます(ちなみに新潮社の単行本は今のところ9ポあたりが標準です)。もちろん、紙に印刷された文字を読むよりも、(今私が使っているデスクトップのパソコンの場合だと)二倍ぐらい離れたところから画面を見ていることにも関係があるかもしれません。ですが、考えてみると、以前ノートブック型のワープロを使っていた頃は、目と画面の距離は、目と紙媒体の距離とほとんど変わりませんでした。なのに、ワープロの画面上の文字の大きさは、優に15ポはあったと思います。ワープロ開発初期の頃は、少ないドットで書体をきれいに見せるために、大きな文字にする必要性があったのでしょう。つまり、電子メディアにおいては、そもそも紙媒体よりも文字が大きいところから出発していたのです。

 携帯メールの文字だって、新聞活字よりずっと大きい。最近テレビで乱用されるテロップの文字も極端に大きくなってきました。これだけ大きな文字が世の中に浸透してくると、そこで使われている文字の大きさに慣れて、結果的に私たちの文字感覚に少なからぬ影響を与えているであろうことは間違いないはずです。そういう意味ではIT革命やテレビでの文字の扱われ方も大活字化の流れをつくっている一因かもしれません。

 本の装幀のタイトル文字もどんどん大きくなっています。昔の本のタイトル文字と較べると、ほとんど冗談かと思われるほど大きい文字が使われている場合もあります。もちろん、個性的な書き文字を使う装幀家、田村義也さんや平野甲賀さんのデザインされた本などでは、タイトル文字が必然的に大きくなる場合もありました。しかし最近の大きなタイトル文字は「大きくしておけば安心」という心理が背後にあるとしか思えないものが多いのです。

 私がこれまでに関わってきた仕事に、「新潮クレスト・ブックス」という翻訳のシリーズがあります。「クレスト・ブックス」は新潮社の装幀室と一緒にデザインを詰めていったシリーズなのですが、当初から「タイトル文字が小さすぎる。これじゃあ書店で目立たない」と社内の関連部署から何度も注文がつきました。とくにシリーズで最大のベストセラーになったベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』の場合には、ベストセラーになりかかった頃、「このままじゃタイトルが見えない」と社内からクレームがつき、頑固な私も一度は白旗を上げ、帯に「朗読者」と大きな文字で刷り込むという「屋上屋を架す」事態まで招いてしまいました(この帯はさすがに途中で使わなくなりましたが)。

 ここでデザイン論をやるつもりはないのですが、私は今でも「大きければいい」という発想には疑問を持っています。要するに、文字が大きくても視認性の低いデザインはあり、文字が小さくても視認性に優れたデザインはある、と思うのです。したがって、なんでもかんでも「小さければ」と考えているわけではありません。しかし、「松家はタイトル文字を小さくしたがる」という評価は社内的にすっかり定着しているようで、私は一人「そう決まったわけでもないんだがなあ」と内心でブツブツ呟いているのです。

 ユニクロの大ヒット商品となったフリースのテレビコマーシャルは、アメリカのワイデン&ケネディ社が製作を担当したそうです。養老孟司氏などを起用した奇妙に静かなコマーシャルをご記憶の方も多いかと思います。音楽も商品名の連呼もなく、画面上の文字も小さいものでした。社内で試写したとき、「画面上の文字が小さい」「安い価格をナレーションで言うべきだ」といった強い反対意見が出たそうです。しかし、ワイデン&ケネディ社の担当者はこう言ったそうです。「テレビを見ている人をもっと尊重すべきである。彼らのインテリジェンスに期待しなければ」

 ある落語家は、高座に上がったとき、客席がざわついているのを見て取ると、いつもより小さい声で話を始めるそうです。そのほうが客席が静かになるから、と言うのです。大きな声を張り上げて注目を引くやり方もあるでしょう。しかし落語家の選択した方法には「なるほど」と思わせる知恵が感じられます。「北風と太陽」ではありませんが、大きな文字の氾濫は、北風作戦そのものであり、無理やり「こっち向け! こっち向け!」といたずらに大声を張り上げている光景に思えてくるのです。

 ……しかし、なのです。ここで私の持論が揺らぐ事態が突然起こりました。と言うのは、最近どうやら老眼が始まったらしいのです。小さい文字が読みづらい。先日も古い文庫本を読み返そうと思ったら、あまりに文字が小さく感じられて、文庫を持った手がぐっと後ろへと後退し……。うーむ。「小さい文字好きの松家」危うし!

「考える人」には中高年の愛読者の方から「文字が小さいので読みづらい。もう少し大きくしてほしい」というご意見が何度か寄せられています。以前から気にはなっていたのですが、実際に自分もそうなってみると、「考える人」の本文組の文字の大きさが本当にこれでいいのかどうか、心配になってきます。ですが、一冊に収容できる原稿の枚数を考えると、大活字化すればするほど総ページ数が膨らみ、すなわちコストが増大し、現在の定価を維持するのが難しくなりかねません。ただでさえ一般の雑誌よりも高い定価設定になっていることを自覚していますので、これ以上定価を上げて読者の皆さんの負担を増やすわけにはいかず、「考える人」の本文の文字の大きさをどうすればいいのかが、現在の悩みのひとつです。

 そこでふたたび素朴な疑問。どうして昔の本や新聞は小さい活字で大丈夫だったのでしょう? 老眼の人が少なかった? そうでしょうか? 私はどうしても、都市生活化が全国的に進んだこと、IT革命、テレビ文化が、私たちの目や心理に何がしかの影響を与えたのではないか、と思わずにはいられません。まだビルが少なく、空も広く、人も少なく、パソコンもなかった頃。私たちの視線はもっと遠くへ、するすると伸びていたのではないでしょうか?

 畑仕事をしながら、こう考えた。街で働けば目が悪くなる。文字を大きくすればコストが増える。小さくすれば窮屈だ。兎角に出版はむつかしい。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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