Kangaeruhito HTML Mail Magazine 049
 

『癒える力』竹内敏晴(晶文社)


 アメリカやイギリスの出版社の人と何度か会ううちに顔なじみになって、しだいに親しくなると、それまでは握手で挨拶していたのが「ハグ」に変わることがあります。つまり、軽く抱き合って頬と頬を交互に触れ合わせ口で軽くキスの音を立てるもの。

 初めてそれを経験したときは、まったく予期していなかったので、突然笑顔が近づいてきて何か耳打ちでもしようとしているのかと錯覚してしまい、0.5秒ぐらいこちらの対応が遅れ、ファウルチップ気味のハグになって少々気まずい思いをしました。

 海外出張に行き始めた頃は、会うたびの握手にも微妙な恥ずかしさのようなものを感じていたのですが、それは間もなく慣れてしまい、今はまったく自然に手が伸びます。

 日本人はお互いのからだに触れることを遠慮する文化を持っているようです。長いつきあいなのに、握手さえしたことがない、という人間関係はめずらしくありません。他人どうしが擦れ違う際にちょっとからだが触れたぐらいでは、その瞬間はまるでなかったことかのようにお互いに黙っていることが多いのではないでしょうか。欧米ならばたちどころに「Excuse me!」と条件反射のような間髪を入れないひと声がかかるところです。

 そういえば、私は日常的な場面で自分の父にも母にもほとんど「触れる」ことがありません。たとえばアメリカ映画で息子が母の肩に手を置いて何かを話しかけていたとしても何の違和感も覚えませんが、もしそれが日本映画だとしたら、たぶん微妙な抵抗を覚えるのではないでしょうか。そんな心理的な障壁が確実にからだのなかに刻まれていると感じます。

 小津安二郎の映画「東京物語」で、母親役の東山千栄子が危篤となり、子供たちがそのまわりに集まって夜を明かすシーンがあります。横たわる母親にうちわでゆっくりと風をおくる以外には、誰も母親に触れることはありません。明け方に母親が亡くなっても、その距離感に大きな変化はないのです。「泣いてとりすがる」というシーンは映画やドラマではよくみかけますが、現実ではどうでしょうか。私は「東京物語」の光景に、日本人としてのリアリティを感じます。

「触れない文化」は、それはそれで美しいと思います。しかしどこか淋しくもあります。ほんのちょっとした仕草や表情、言葉のはしばしで伝えれば、肩をつかんで揺さぶりながら話しかけるより真意がきちんと届くのではないか、と思わないでもありません。でもいざというときには、やはり手をとって、肩を抱いて、からだを寄せるようにして話したほうが伝わることがあるはずです。

 看護婦さん(今は看護師、あるいはナースという呼び方のほうがいいかもしれません)を見ていると、「触れる」ことへの心の障壁がない方が多いのに、今さらながらに感嘆します。それは職業的なふるまいであり、慣れである、と考える人がいるとしたら、それは違うでしょう。自分以外の人に手で触れるという感覚は、どんなに繰り返しても麻痺するようなものではないからです。握手になじんでも、毎回人と握手する瞬間に、からだの内側には独特の感覚がひろがります。そして病人がその触れられ方によって何かの力を得ていることを目の当たりにするとき、手で触れ合うことの大切さを再認識します。

 養老孟司氏は、以前「人間ドック」のような検診をして、結果を医師から説明されるときに、医師は検査結果に印字された数値ばかりに目を落として説明し、一度も養老氏の顔を見なかった、と書いています。養老氏は顔色さえ見ない医師も検査も信用することができませんでした。医師はいつから数値ばかりを見て、人間を見なくなったのか、と。医学の現場は、からだもことばもお互いを抜きにしては成り立たない最前線なのであり、そのことに気づいているのは、医師よりも看護婦さんなのではないか、とすら思います。

 本書の著者は幼い頃に耳を患い、四十代になるまでことばを使ったコミュニケーションが難しかった人生を送られた方です。しかしその後、治療が進んで、ことばを取り戻す過程で、人と人のコミュニケーションのあり方を演劇という場で実践しながら体得し、人と人が本当に響きあう関係を持つためにはどうすればいいのかを伝えようとし、著作活動も続けています。本書は、看護婦さんの読む雑誌に連載されたものを、全面的に構成し直して大幅に加筆したものです。

 日本人のお辞儀と西欧の握手の違いについて、また「きみ」と「ぼく」という人称の由来について、日本文化の歴史的背景にも言及しながら、私たちに不足しているかもしれない根源的なコミュニケーションのあり方を、実際に出会った経験をありありと再現しながら、説得力のある低いゆったりとした声(=文体)で伝えてくれるのが本書です。

 その中で、気になったくだりがありました。以下に引用します。

 かつては「怒る」の表現としては「ハラガタツ」しかなかった。戦後になって突然「アタマニクル」が出現したのは、明らかに、「からだ」が変わった、感情を押さえるのではなくバクハツさせる若者がふえた印だった。それがだんだんおとろえて、一九八〇年代に入るころ「ムカツク」が現われた。怒りをのみこむことも吐き出すこともせず中途半端に立ちつくす姿勢だと言えよう。ところが、「ムカツク」に代わって「キレタ」「ムナシイ」が小学生の間に現われたと、わたしが気づいたのが数年前だった。今若い学生たちは「ムナシイ」「ツカレタ」をほとんど無自覚にくり返しているかに見える。「生きてる意味がみつからない」とつぶやく学生は続いて「もっと自分を知りたい」とも言う。かれらはカウンセリングやいわゆる「癒し」のワークショップにひかれ、心理学や(疑似)宗教に向かったりもする。

 著者は、手で触れ合うコミュニケーションや「癒し」のイメージに安易になだれ込むことを警戒しながらも、「からだ」のたたずまいがいかに人々の「こころ」を決めてしまうかに目を向けます。そして今孤立を感じている多くの人々の、行き場を失いかねない「からだ」と「ことば」の澱んだかたまりが、ふたたび外側に向かって自然に流れ出すような水路をつなげるいくつものヒントをさしだしてくれるのです。

 私たちは何も欧米の人々のようにハグをする必要はないのです。私たちなりにコミュニケーションを深める方法はあるはずです。

 もし、読者の皆さんのまわりに、こころやからだを病んでいる大切な人がいたら、本書はぜひお薦めしたい一冊ですし、とくにどこかを病んでいなくても、肩に力が入っていたり、気持ちが晴れなかったり、人に自分のことばがとどいていないのではないかと心配していたりするような人にもぜひ読んでいただきたいと思います。
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