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團伊玖磨『パイプのけむり』シリーズ(朝日新聞社)


 次号の特集「大人のための読書案内」にあわせて、「大人とは何だろう?」と考えながら選んだ一冊です。

 二年前に亡くなった音楽家の團さんは、やはり「大人」という言葉の似合う方でした。「大人」のなかでも、ちょっと洒落ッ気があって、冗談が好きで、美味しい食べ物が好きで、旅も、そしてもちろん女性も好き。歴史にも詳しく、海外事情にも通じている。怒るときはしっかりと怒り、笑うときには大口をあけて笑う……そんな大人です。つまりどちらかと言えばアングロサクソン系というよりも「食べて歌って恋をして」のラテン系の大人でしょうか。しかし、團さんはラテン系を振舞いながらも、実はかなりアングロサクソン的な冷静さと分別を持った人でもあったはず、ということがわかってくるのですが。

 團さんが「パイプのけむり」と題して「アサヒグラフ」に連載を始めたのは1964年の初夏でした。あと数カ月で東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通する、という日本全体がなんとも慌ただしい気配に包まれた年のことです。そのとき團さんは四十一歳。すでに数年前から、数々の賞に輝いた歌劇「夕鶴」をヨーロッパやアメリカで公演し、その名声を高めながらますます作曲の仕事にも脂がのっていた、仕事ざかりの頃だったと思います。

 単行本として刊行されていた『パイプのけむり』を中学生の頃に夢中になって読んだのは、ひと言でいえばそこに大人の世界が描かれていたからでした。それは、海外で対等に人々に接触することであったり、大人どうしでちょっと怪しげな会話をかわすことであったり、家族を持つ父親が直面する日常を軽妙にこなすことであったり、團さんはそれらの事柄を的確な言葉で、ときには敢えて大げさな形容を使って表現することによって笑わせたり、ときには感動を与えたりする……これこそが本当の大人というものだ、と感じていたように記憶しています。

 團さんの全27冊におよんだ『パイプのけむり』のうち、七冊目の『まだまだ パイプのけむり』が刊行された頃、日々の生活が高校入学によって一転してしまい、そこでなぜか團さんのエッセイから離れてしまったのは今思えば実にもったいないことでしたが、無理矢理当時の自分に思いを馳せれば、おそらく、その頃からなんとなく「大人」の存在や「大人」の意味合いが疎ましく感じられるようになったのかもしれません。高校一年生ぐらいの男の子というものはなかなか扱いの難しい存在です。

 團さんのエッセイの魅力は語り口と話題の広さです。語り口についていえば、導入部がじつに巧みです。この冒頭を読んだら、続きを読まずにはいられません。いくつか引用してみましょう。

「ハンドバッグというものは何やら恐ろしいものである」
「総理大臣の池田勇人氏は、おそろしく声が穢い」
「誰が何と言っても酢は飲まぬ」
「知人が総義歯(いれば)を呑んだ」
「僕はにんにくを多量に食べる」
「僕は溲瓶の愛用者であって、自宅においては各室に溲瓶を具え、随時、随所で用を足すことを以って喜びとしている」

 こうやって引用してみると、イギリス人が手の込んだ時間のかかるジョークを退屈そうに語り始めたような気配があります。そして、面白いのは出だしだけではもちろんありません。たとえば溲瓶の話では、最後に溲瓶として使われていたことを知らずにその陶器の「可愛らしい壷」で漬け物をつけていたヨーロッパ在住の日本人の奥様の話になり、團さんはその壷から沢山の漬け物を分けてもらうはめになるのです。

 私が読んだ七冊のうち、今も忘れずに覚えていたのは、『又々 パイプのけむり』に収録されている「昇天」という一篇です。ちょっと長くなりますが、以下に冒頭を引用します。

 榮太樓の梅ぼ志飴をお土産にぶら下げて青年が遊びに来たので、差し向かいで飴をしゃぶりながら話しをしている。

「先生は、警察に泊まった事がありますか」
「冗談じゃ無い。そんな経験は無いよ」
「いや、留置場にじゃ無いのですよ、警察署にですよ」
「どちらにしても、そんな経験は未だ無い。僕はね、自分でも情無く思うのだがね、何も悪い事をして居ないのに、向こうからお巡りさんが来るとね、どきどき狼狽してしまって困るんだ。そんな人間がね、わざわざ警察に泊まりに行く訳も無いじゃないか」
「僕は、この榮太樓の飴の缶を見るとですね、警察に泊めて貰った時の事を思い出すのです」
「何で飴の缶と警察が関係あるのかね」
「話せば長い事ながら、関係があったのですよ、大いに」
「へえ」
「北斗七星も関係がありました。谷中の墓地も関係がありました。火事も関係がありました」
「何だかさっぱり判らないが、面白そうだな」
「一寸長くなりますが、一丁話しますか」
「おう」
「原(もと)はと言えば、猫なのです」
「猫」

 ……というような塩梅で話が始まるのですが、いかがですか? これは続きを読みたくなりませんか? というところでネット書店で検索をしてみたら、どうやら今は新刊書としては入手できないようでした。うーむ、実に残念。出版社の人間のひとりとして、他人事のようには語れないことではありますが。

 最後にひとつ付け加えれば、単行本の『パイプのけむり』は装幀造本が独特で、これもまた大きな魅力でした。手元の七冊のあちこちを見てみたのですが、どこにも装幀者のクレジットはありません。おそらくは楽譜の装幀造本を意識したようなデザインはかなり洒落たもので、團さんが自装されたのではないかと感じます。しかし一番の謎はこの判型です。菊判の天を三センチぐらい切り落とした正方形に近いプロポーションにし、一頁が18行、一行が40字という組。とてもゆったりと組んであり、見た目も美しい。今となっては誰もこういう造本、本文組はよほどの見識や覚悟がなければできないでしょう。

 私もこれから、読んでいなかった残りの二十冊を手に入れて、少しずつ読んでいこうと思っていたら、『まだまだ パイプのけむり』のあとがきにこんなくだりがありました。

 随筆というものは無類に惨酷な作業で、僕が死んだ時には、自分自身の心で観察され、研究され、解剖され、暴露され、ずたずたになった僕の心が、野末の風と埃の中に乾涸びて転がっている事になるのだと思う。

 立ち昇ればやがて消えてなくなる“パイプのけむり”というタイトルを選んだ團さんの、人生の処し方がぼんやりと見えてくるような一節です。
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