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色川武大『私の旧約聖書』(中公文庫)


 去年の「考える本棚」(8月28日号)で色川さんのエッセイシリーズを取り上げたばかりなのですが、先週末から何気なく書棚から手にとって読み始めたら、やっぱりやめられなくなってしまった色川さんの文庫オリジナル作品をふたたびご紹介します。

 人生「九勝六敗」理論を中心にして、若い人々に向けて書かれた名著『うらおもて人生録』(新潮文庫)が単行本として世に送られた一九八四年に、雑誌で連載が始まったのが「はずれ者の旧約聖書」でした。本書はこれを改題し、編集し直して、色川さんの没後の一九九一年(亡くなったのは一九八九年)に刊行されています。

 あらためて読み直してみると、これは色川さんの遺書がわりの本だったのかもしれない、と思わずにはいられませんでした。たとえば本書の後半に、こんな文章がでてきます。

「私は、遊び呆けて五十何年、生きてきてしまいまして、もう残りの時間とてすくないのですが、そのせいか、このところ過ぎ去った日々のことばかりに眼を向けているような気がします」

「私も死期の近づいたことを意識していますが、なんとなく、あったかい布団の中にもぐりこんで寝るような、やれやれというような感じが今はしています。そうして、私の一生の中で最大の善事は、盲目飛行でよくぞここまで生きてきた、ということです」

 そんな思いが脳裏に去来していた色川さんにとって、なぜ「旧約聖書」だったのでしょうか。それについては、最初の章「キャッチボール」でこう説明しています。

「私、ただのはずれ者でありまして、宗教人とか、教養人とかの立場から、旧約聖書を語ろうというわけでは、もちろんありません。いうならば、巷の不良男が、なぜか、たまには自分よりもずっと大きいものに喰いさがって、まァ、ぶつかり稽古の稽古台になってもらおう、と思いたったのであります。
 というのは、私が若い頃、偶然に近いきっかけで旧約聖書を読み、私なりに大変感動したことがあるからであります。その頃の私は、旧制中学も途中で放ってうやむやにしたまま、定職につこうともせず、もっぱら博打場で人に喰らいつき、ただ眼前の力わざに精出すばかりで、文字や文章などというものにほとんど敬意を抱いておりませんでした。旧約聖書を読んで、はじめて、(神でなく)人間の叡智というものに底知れぬ怖れを感じました。(中略)この体験がなければ、私など、現在、文字を記す職業にたずさわっていなかったかと思います」

 色川さんの旧約聖書に対する「喰いさがり」方は、本人がおっしゃるとおり、宗教人や教養人とはまったく違う、独特のこだわりが支えています。それまでの人生で出会った様々な場面を腹の奥で受け止めて、やがて色川さんのなかでどっしりと深く根を下ろすこととなった具体的な何か。それはたとえば無期停学中の中学生だったとき、東京大空襲を経験し、見渡す限りが焼け野原になったときの記憶です。

「関東平野という概念があるものだから、東京も平野で、つまり平らなところに自分は立っていると思っていたのです。
 焼け野原になって、四方を眺めてがっくりしたのですけれど、東京も山あり谷ありの丘陵地帯で、自分がでこぼこしたところに立ち暮していたのですね。
 そんなふうに、まったく疑いもしなかった日常の概念が、皮を剥ぐようにひとつずつ剥がれていったのですが、一番大きな印象を残したのは、地面というのは、泥だ、ということでした。
(中略)
 必然的に、その上に建っていて、今まで厳然と見えていた家などというものは、あれは地面の飾りのようなもので、なにか事があれば、めらめら燃えてなくなってしまう。
(中略)
 あのとき、焼け跡にしゃがんでいるうちに、視界いっぱいに入った地面の感じが、今もって忘れられません」

 色川さんはそのように想い起こしながら、自分なりの認識の軸がいかにして形づくられていったのかを自問自答するように書くのです。そして、いわば土地をめぐる物語としても読み取ることのできる「出エジプト記」の言葉に、臆することなく淡々と付き合っていきます。その姿は、実にしぶとく、細心であり、旧約聖書を過大にも過小にも貶めることなく、書かれてある言葉から聞こえる肉声をみごとにあぶりだします。

 そして焼け野原の東京が、はるか彼方の世界であった旧約聖書のエジプトと、あるいは「乳と蜜との流れる」カナンの地と、静かに重なり合いその距離を失う瞬間を、私たちは色川さんの言葉の内側で目撃することになります。

 旧約聖書の背景についての説明は本書にはほとんどありません。色川さんはいわば徒手空拳で旧約聖書の言葉そのものに相対しているのです。もし、本書を旧約聖書を読まずして旧約聖書を理解できるガイドブックとして期待されたら、予想は裏切られるでしょう。しかし、色川さんは表情を変えることなく、しかし全身全霊で、ひょっとするとそれまでの人生をかけて旧約聖書を自分の側に引きずり込んでいるのです。色川さんの人生が旧約聖書を検討し、旧約聖書が色川さんの人生を検討している──本書に色川さんの宝のような言葉が溢れているのは、そのためなのでしょう。

 言葉は単なる飾りではない。言葉がその人の人生を変えるときがある。そんなことを思わせる大きな一冊です。
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