Kangaeruhito HTML Mail Magazine 062
 みどりのおじさん

 朝八時前、ふだんよりもいっそう防寒を心がけた服装で、Sさんのお宅を訪ねます。笑顔で現れたSさんからしっかりと手渡されるのは、水色の手さげ袋。「よろしくおねがいします」「はい、おあずかりします」。袋のなかには、目の覚めるような黄色い旗が几帳面に丸められて入っています。

 私が小学生だった頃は、母親より年上の中高年の女性が、緑色の制服と黄色い帽子を身につけて、その役割を担っていました。だから通称「みどりのおばさん」。小学校の通学路で横断歩道を渡る小学生を見守り、自動車の運転手には黄色い旗で注意を喚起します。ときには小学生が横断歩道を渡り終わるまで黄色い旗で自動車を止めている場合もありました。小学生にとっては、やさしい笑顔の「みどりのおばさん」は、先生でも親でもない不思議なスタンスの第三の大人でした。

「みどりのおばさん」をインターネットで検索すると、何件かの区議のホームページにヒットします。あるホームページでは、経費削減のため「みどりのおばさん」を廃止した区政の横暴を批判し、また別の区議のページでは、「いまだにみどりのおばさんを正職員として雇用し、こんな高い給与を払っている。こんな無駄遣いは許せない」と主張を展開する──局地的にはホットなテーマとなっているらしいのです。

 この「学童等交通誘導員」通称「みどりのおばさん」は、区によってはまだ存続しているところもあるかもしれませんが、私の住む区では三年ほど前に廃止されたようです。以降はPTAが当番制にして、「旗振り当番」と称し順繰りに父母が「みどりのおばさん」役を担うことになったというわけです。そしてときどき私も「みどりのおじさん」になります。

 しかし今回は、みどりのおばさんの存続問題を考えてみようというわけではありません。横断歩道を渡る小学生に「おはよう」と声をかけながら「みどりのおじさん」の頭のなかに浮かんできたのは、「……ひょっとしてこれは、中島義道さんが『うるさい日本の私』や、『考える人』の連載『醜い日本の私』で繰り返し指摘している、巷に溢れるうるさいアナウンス、無意味な標語のかかれた看板、垂れ幕と同類の行動なのではないか」ということでした。以下、『考える人』最新号からの引用です。

「私がこの国に住んでいて非常に苦しいこと、せめて『苦しい!』と訴え続けたいことは数々あるが(大問題は除く、念のため)、その一つは、日本全国いたるところで猛威を振るう『定型化』である。(中略)
 典型的な一例は、現実的効果を一切考えず、ひたすら『春の交通安全週間』『歳末防災運動』『駅前放置自転車クリーンキャンペーン』など『お上』が何百枚もの原色の旗や幟を街角に立て、さらに広報車で爆音を撒き散らすこと。いたるところ、この構造である。(中略)
 こうしたキャンペーンに対する私の反論の根拠は、至極単純である。第一に、旗も、幟も、横断幕も、スピーカー音もたいそう醜いこと。第二に、どう考えても一週間のこうした方法で交通事故や火事が減るようには思えないこと。第三に、逆にこうした方法で一挙に轢き逃げが減り、放置自転車が激減するとしたら、それはまともな大人の反応として『おかしい』こと」

 私が今回とくに考え込んでしまったのは、中島さんが指摘する第三のポイントです。つまり、旗振り当番がいなければ子どもたちが安心して横断歩道を渡れないとするならば、「それはまともな大人の反応として『おかしい』」。私は自動車免許を取得する際の学科の授業で、横断歩道というものは歩行者優先であり、渡ろうとする人がいたら必ず車は止まらなければならない、と学びました。さらに言えば、小学生が何人も横断歩道を渡ろうとしているのが見えていたら(絶対に見えていないはずはないのです)、なおさらのこと早い段階で減速し、横断歩道の手前で停車するのが運転者の義務であり、人間としての常識のはずなのです。しかし、小学生が横断歩道のところに何人もたまっていても、かなりのスピードでどんどん走り抜けて行く自動車が実に多い。さらに言えば、運転手の視線は間際になると、私の手許の黄色い旗を見ていて、小学生たちをみていない(!)のです。

 旗振り当番をやっていて(実は今回で三回目のお務めです)、過去に驚かされたことがあります。それは、一緒に旗を振っていた相棒のお母さんとのタイミングが横断歩道の向こうとこちらで今ひとつずれてしまうことがあったのです(説明しそびれましたが、旗振り当番は二人一組になっています)。つまり私は旗を出して「いま渡っていいよ、はい、気をつけて渡ってね」と言っているのに、横断歩道の向こうで同じく旗振り当番となっていたお母さんは、「今は渡らないでちょっと待ってね」と合図を出していたというわけです。するとバイクに乗った男が、「どっちなんだよ! はっきりしろよ!」と吐き捨てるように言って走り抜けて行きました。

 われわれは機械の信号ではありません。人間としての個々の判断で旗を出したり引っ込めたりするのです。不幸なことに二人の合図が一致しなかったとはいえ、少なくとも一人から「止まれ」という合図が出されているのです。であれば、とにかくまずは止まるのが人間的判断のはず。ということはつまり、バイク男氏は自分で状況を見て判断することを完全に放棄していたわけです。「旗振りの不一致」は信号機の故障みたいなものであり、けしからん、というわけなのでしょう。

 関東と関西ではだいぶ事情が異なると聞きますが、国民単位で考えれば、日本人ほど信号をきちんと守る国は少ないのではないかと思います。交通量がほとんどない道の、真夜中の赤信号でもきちんと止まります。それなのに、信号機がないと、とたんに怪しくなる。こころの底に、だれかにきちんと進むべき方向を指示されたほうが安心する、という考え方が植え付けられているのでしょうか。

 そして、「みどりのおじさん」の目から見ていていつも驚かされるのは、自転車のことです。実は信号機のない横断歩道を子どもたちが渡るときに危ないのは、自動車ではなく、自転車なのではないか、と思うほどなのです。朝のバス通りは自転車の通行量が圧倒的に多く、それもかなりのスピードで走ってきます。通勤通学の時間の問題があるのでしょう、けっこう怖い顔をして必死で漕いでくる人が少なくないのです。日曜日の昼下がりにすれ違う自転車の二倍か三倍のスピードが出ている感じです。旗振りのタイミングを失うのは、自転車のためといっても過言ではありません。

 自転車は省エネルギーであり、公害も出しません。しかし、自分の足で漕いでいるという感覚があるためか、どうやら自転車に乗っている人は、バイクや自動車のように動く凶器となる可能性をあまり想定せずに走っているような気がします。だいだい、小学生が横断歩道を渡っていても、するすると蛇行してよければいい、という走り方なのです。黄色い旗で制止されるのは自動車やバイクであって、自転車は「関係ない」。そして敢えて書かせていただきますが、男性の自転車乗りの人は黄色い旗の指示によって自転車を止めることがあっても、なぜか、女性の自転車乗りの人は、ほとんど止まってくれません。止まってくれないどころか、迷惑そうな顔でにらまれることもあるのです。

 こうやって書いてくると、やはり気持ちは「みどりのおばさん」不要論に傾いていきます。自動車、バイク、自転車、そしてもちろん小学生も、自分の目で見て自分で判断して、「歩行者優先」の大前提をきちんと守れば、事故は起こらない、と考えるほうが大人の社会なのではないか。「……いやいや、とんでもない。低学年の男の子たちの“飛び出し”は、大人の目がなければ絶対に未然に防げない」という意見もあると思います。「危機管理」的な発想からすれば、「みどりのおばさん」を廃止した場合、「じゃあ誰が責任をとるんだ」という話になるに違いなく……。

 私自身について言えば、自動車や自転車とのタイミングに悩みながらも、「みどりのおじさん」として、朝一番の小学生たちと「おはよう」「おはようございます」と声をかけあうことが何となく楽しく、当番が回ってくることを密かに楽しみにしているところもあるのです。……うーん、いったいどうしたらいいのか?

 八時半すぎに旗振り当番は撤収します。水色の袋に黄色い旗をくるくると丸めてしまい、明日の当番の家に届けに行こうと歩き出したら、遅刻してきた三年生ぐらいの女の子がやってきました。すれ違い際に、私の水色の袋に視線が来たような気がしたので「大丈夫?」と声をかけ、横断歩道の方へ戻ろうとしたら、彼女が言いました。「あ、大丈夫です。ひとりで渡れますから」。彼女の大人びたセリフが、今も頭のなかに残っています。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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