Kangaeruhito HTML Mail Magazine 064
 聴くこと

 インタビューを読むのが好きです。日ごろから関心を持っている人のインタビューが雑誌などに載っていると、何を措いてもまずは読みたい、と思ってしまいます。同時に、自分でも編集者としてインタビューをし、記事にまとめることがあるので、インタビューの出来、不出来はとても気になります。

 インタビューには大きく分けてふたつのタイプがあります。ひとつは相手のなかから話したいこと伝えたいことを上手に引き出すもの。もうひとつは、あまり話したくないことや自分でも気づかなかったことを引き出すもの。どちらもインタビュアーの能力しだいで面白いものにもなれば退屈なものにもなります。そもそも魅力的な人を相手にするのでなければ、どうやってもインタビューは面白いものには成り得ません。けれども、聞き手の「引き出す」能力しだいでは、たとえ相手が魅力的であっても、インタビューはいくらでも退屈なものになってしまうのです。

 その人の話をテープから起こしただけでは、面白いインタビュー記事にならないのはもちろんです。まとめ方もまた難しい。話の要点をまとめたようなものでは味気ないですし、話し方の癖ばかり再現されて、だらだらとしていても肝心の話の核心には届きません。その人の生身の人間に触れるような言葉遣いを残しながら、聞いた話を交通整理する必要があるのです。

 しかし、インタビュー記事を読み終えて満足する割合はといえば二割ぐらいしかありません。六割は「可もなく不可もなし」で、残りは「これじゃインタビューされた人は浮かばれまい」という出来のもの。インタビューはお手軽に記事としてまとめられる便利な手段でもなんでもなく、やはりかなり難しいものだということがわかります。

「婦人公論」の最新号(2月7日号)に掲載されているピアニスト内田光子さんへのインタビュー記事(構成=林田直樹氏)は、出色のものでした。私は内田さんの奏でる音楽を深く敬愛していますが、「内田さんのピアノを聴いたことがなくても面白いですよ」とすすめたくなる内容なのです。音楽を中心にした話題であっても、そこには日本人について、日本語について、教育についての内田さんの深い洞察が浮かび上がってきます。たとえば、こんな発言があります。

「日本語での会話には、人間関係を円滑に保つように機能する性質があります。日本語社会では、真実を伝えたり、正直な発言をしたりするのは、二の次。失礼にならないということを一番大事にしている場所なのです」

「考える人」に自伝を連載中の阿部謹也氏が『「世間」とは何か』(講談社現代新書)や最新刊の『日本人の歴史意識―「世間」という視覚から―』(岩波新書)などの著書で指摘しているように、日本人は「世間」という、目には見えない枠組みのなかで生きています。隣近所であっても会社であっても学会であっても、同じ「世間」という枠組みが存在し、そこで生きる人々の言動を左右します。人間関係を円滑に保つばかりではなく、お互いを監視し、干渉する装置でもある──それが世間です。

 漱石の「草枕」の冒頭、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」も、世間というものが私たち日本人をどのように動かしているのかを、簡潔に言い当てたものだとも読み取れるのではないでしょうか。明治維新があろうが、第二次世界大戦があろうが、グローバリゼイションがあろうが、「個人主義」は日本ではまだまだ絵に描いた餅に過ぎないのです。

 インタビューのなかで「言葉はその人の生きている文化を反映しています」とも言う内田さんは、かつて漱石が暮らしたロンドンに生活の拠点をもっています。しかしロンドンで暮らせば誰もが日本的な世間から離れられ個人主義を実現できるわけではありません。そこには何かを実現させようとする一人の人間の強固な意志があり、「どんなにお金を積まれても、ほかの仕事はしたくない。音楽しかやりたくないのです」という静かな闘いがあってこそ可能になる個人主義なのです。地理的に日本から離れるかどうかが何かを決定するものではありません。

 内田さんは「日本のような社会で生きようとする場合、そのまま大勢に流されつづけてしまってはいけません。多数のただなかに埋没してしまうとすれば、それはその人が悪い。自分の意志を手に闘わないとダメですよ。闘うのすらイヤな人だけが、ほかの人と同じにしていればいいのではないでしょうか」とも言います。

 最後にこのインタビューでいちばん感動した部分を引用させてください。それは、教育についての話題が進むなかで登場するものです。

「日本の音楽教育の最悪な点は、『音楽は教わるものだ』と思っているところです。とんでもない! 音楽とは、ただ純粋に聴くもの。音楽教育は確かに必要ですが、ただ聴かせていればいい。
 そもそも、ピアノを弾くということは、聴くということなのです。私だって、弾いているんじゃない、聴いています」

「聴く」という言葉には、ふだんの私たちは、「外からやってくるものに耳を傾けるもの」というイメージを持っているのではないでしょうか。反対に「表現すること」について言えば、「自己から外側に向かって何かを放つもの」というイメージがあります。それぞれの矢印は一方向だけに向かっています。矢印は往還するものなのだ、とは思っていないのではないでしょうか。しかし今の私たちの暮らしには、一方通行の矢印ばかりが満ちています。言葉にしても音楽にしても教育にしても、自らが耳を澄まし、耳を傾け、対話するような時間や空間、経験があるでしょうか?

「一番怖いのは、音楽を聴く耳がなくなること。それが、じきにそうなってしまいそうなところまで来ています。現代の社会で、音楽は強く生きていません。重要性はどんどん失われ、わからない人たちでいっぱいになっています。次の世代は、本当に偉大な音楽を聴けない人々であふれかえるようになると思います」

 3月に内田さんは演奏会のために来日します。かつてレコーディングよりもコンサートで演奏することが大事と発言されたことのある内田さんと同時代に生き、直接にその演奏を聴くことのできる幸せのなかに私たちはいます。16、17日はロンドン交響楽団との共演、21、23日はテノール歌手イアン・ボストリッジとのリサイタル、29、31日はピアノ・リサイタルが予定されています。意志を持続させながら、ひとりの個人として生きるピアニストが、その指で鍵盤を叩き、その場の空気を振動させる瞬間。耳を澄ましているのは聴衆だけではないのです。演奏者と同時にその音を聴く、という経験をあらためて感じながら音楽に触れてみたいと思い、私も3月のチケットを手に入れたところです。

(注)内田さんの発言はすべて、「婦人公論」2月7日号からの引用です。


「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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