Kangaeruhito HTML Mail Magazine 068
 時刻表と自筆年譜

『時刻表2万キロ』など数多くの著作を持つ鉄道紀行作家の宮脇俊三さんが亡くなったのは、昨年の二月二十六日です。ご本人の強い希望で公には葬儀を行わず、お別れの会も開かれることがありませんでした。しかし約一年が経って、御遺族のご諒解を得ることができ、今週の月曜日、「宮脇俊三さんを偲ぶ会」が開かれました。宮脇さんを偲ぶ場所としてはここがいちばんふさわしいと思われる、東京ステーションホテルが会場でした。

 宮脇俊三さんは、鉄道紀行作家としてデビューされる五十一歳までは、中央公論社に勤務していた名編集者でもありました。代表的な仕事には、昭和三十三年に刊行された『幸田文全集』(作家の水村美苗さんが冬号の特集「大人のための読書案内」のなかで、愛読書にあげられていました)、北杜夫さんの大ベストセラー『どくとるマンボウ航海記』(昭和三十五年)、同年に刊行が開始された『世界の歴史』シリーズ、昭和三十七年に創刊された「中公新書」……などなど昭和三十年代の中央公論社のヒット作はほとんどが宮脇さんの企画ではないか、というイメージすらあります。

『世界の歴史』シリーズが刊行された頃、弱冠三十四歳で第二出版部長に就任し、昭和四〇年、東京オリンピックの翌年に刊行がスタートした『日本の歴史』シリーズは、第一巻が百万部を突破するという全集ものとしては空前のベストセラーになりました。また「中央公論」「婦人公論」の編集長も歴任し、四十一歳で編集局長、翌年には取締役に就任しています。

 そんなイメージからは「泣く子も黙る凄腕編集者」の像が浮かび上がって来るようですが、『宮脇俊三鉄道紀行全集』第6巻の月報で、元中央公論社製作部長の藤田良一さんは宮脇さんの人となりについて、こう書かれています。

「宮脇さんは率先躬行の部長だった。編集方針をきめて、つねにみずから第一巻を担当した。二巻三巻と続く部員に指示をあたえながら、そのシリーズのフォーマットをつくっていくのである。その間に次の企画の準備にかかり、第一巻を発刊させると次の第一巻を担当する。全集の成否は社運にかかわりかねない。誌面の体裁、装丁、内容見本など宣伝戦略までが一気に集中してくる。それらを片付けながら、管理職業務もこなしながら、図版集めなど平部員とおなじ作業もするのである。(中略)
 しかし、当時流行のモーレツ部長を想像されては困る。周囲への配慮を忘れない穏やかな人柄なのである。私は宮脇さんの激しい言葉を聞いたことがない。どんなことがあっても言葉遣いが変わらない。電話を切るとき、いかに忙しくとも、相手の切るのを待つように静かに受話器を置く。」

 宮脇さんは静かな人でした。まわりがうるさいと聞き取れないこともあるほど声も小さく、鉛筆書きの原稿はややこぶりの几帳面な字配りが印象的でした。中央公論社が「風流夢譚」事件以降、大揺れに揺れた激動の時代に、その最前線で数々の修羅場をくぐり抜けてきた方とは想像もできない、どちらかと言えば学究タイプのひっそりとした方でした。

『宮脇俊三鉄道紀行全集』の第6巻には、自筆年譜が収録されています。わずか十頁に収められた年譜はしかし、分厚い本一冊分に匹敵するような、読みごたえのある大変な労作です。私はこの年譜を読んだとき、何とも言えない感動を覚えました。抑制され、整理された文体で、自分のそれまでの人生をこれほど客観的に、フェアに書き記すことができるのは、恐るべき強靱な精神の持ち主でなければ不可能ではないかと思ったからです。

 自筆年譜は書きたくないことは書かないでも済ますことが可能です。しかし宮脇さんは重要な意味を持つもの、他人が宮脇さんの人生をたどろうとするときには欠かせないであろうことについて、限りなく客観的な立場で記述しています。失敗は失敗として認め、粉飾なくそして簡潔に、ときに冷徹な感想をはさみながら、自分の人生を、まるでユーモアの真の意味を知っているイギリスの生物学者のように、淡々と書くのです。

 五歳の頃から時刻表に目を輝かしていた様子や、二十七歳で一度中央公論社を退社し、建築家を目指した話など、興味深い記述も多々出てきます。宮脇さんの静かな風貌とは別に、好奇心の強い、バイタリティーに満ちた、人生に対する意志の強い姿勢が浮き彫りになります。

 しかし役員に就任してからは、編集の仕事ではなく、労務担当的な仕事に追われ、年々疲弊してゆく宮脇さんの、穏やかならざる心中も伝わってきます。あらゆる事実を尊重し、フェアであろうとする宮脇さんも、年譜の末尾近く、昭和四十七年の項目の中で、ついにこう書きます。

「これからの数年の状況は説明しにくい。社業は振るわず、開発室も冴えない。社長や専務と私との関係にも水がさしてきた。が、造反分子の力も衰えてきた。暇をみつけては鉄道旅行をする。社業への情熱も薄らいできた。」

「偲ぶ会」には元中央公論社の方も、現中央公論新社の方も、多数かけつけていました。宮脇さんを敬愛する先輩、同僚、後輩が大勢いたことを証明する麗しい光景だと感じました。そのなかで、現在の中央公論新社の辣腕編集者として知られるMさんと立ち話をしていたときに、Mさんは宮脇さんについてのエピソードを教えてくれました。

「宮脇さんはあのぼそぼそとした声で、廊下ですれ違う僕に、いくつか謎掛けのような言葉を残されたんだけど、今でもときどきその時の宮脇さんの言葉を思い出すんですよ。何しろ僕が入社した年が、宮脇さんが退社される年でしたから、いっそう印象深くてね。……退社されることが決まって、廊下で立ち話していたときに、『でも、また会社には遊びにいらしてください』って申し上げたら、宮脇さんはちょっと苦笑いされて『いや……絶対に来ません』ときっぱりおっしゃってね、あの言葉にこめられたものは半端なものじゃなかったなあ」

 宮脇さんの自筆年譜から立ちのぼってくる公正さは、どこか時刻表に似ています。発車時刻や到着時刻を頼りにする人がいる限りにおいて、正確を期さねばならないという姿勢。自尊心や虚栄心は何の足しにもならないと判断する時刻表的な精神が、自筆年譜のフェアさを貫いています。この公正さと強固な意志、目的に向かって静かに着実に力強く走る黒い蒸気機関車のような姿勢は、現在の出版界から消えつつあるもののように感じます。

 実は、私が「小説新潮」編集部に新米編集者として在籍していた二十年ほど前、先輩から受け継いで宮脇さんの担当になり一緒に全国をまわったことがありました。当時から宮脇さんが若くして重役にまでなった名編集者だとは知っていましたが、目の前にいる宮脇さんはそんなそぶりはいっさいなく、鉄道紀行作家の顔だけを私に見せていました。言葉少なで、声も小さい宮脇さんと鈍行列車に揺られていると、鉄道に興味のまったくなかった私は、うかつにも何度か居眠りをしてしまったことがありました。

 あの長い時間のなかで、うかがえることはいろいろあったはずなのに、といまさらながらに思うばかりです。没後一年を経て、宮脇さんの人生にあらためて思いを馳せた一晩でした。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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