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四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮社)


 本書を読みすすめながらしきりに思い出していたのは、村上龍氏の小説『69』でした。『69』は間違いなく村上氏の傑作のひとつだと思います。村上氏が経験した長崎県立佐世保北高時代のバリケード封鎖を背景に、冗談好きで女の子にもてたい一心の地方の男子高校生の自意識を率直に描き、最後までその軽やかさのまま走り抜ける筆致は「爽快」としか言いようのないものでした。

 四方田氏も同じ時代に東京の高校生でした。それも東京教育大農学部附属駒場高校という、東大合格者の数が百名以上を数える大変な進学校に学ぶ優等生だったのです。そして、本書のひとつの大きなポイントとなるのは、教育大附属駒場高も短い時間バリケード封鎖をし、四方田氏もその関係者だったことであり、そしてバリケード封鎖があっけなく終息してしまったことのなりゆきに、著者が今もなお大きなこだわりを持ち続けていることでしょう。五十歳になった現在、そのこだわりを核に、1968年から70年にいたる時代と、そこで生きた高校生としての自分を丹念に腑分けするように書かれている本書の執筆の背景は、単なるノスタルジーでは終わるはずのない動機を抱えています。

 しかし同じ時代を生きた高校生の頃の自画像を描きながら、『69』の楽天性に較べ、『ハイスクール1968』がどこか沈鬱な色合いをしているのはなぜでしょうか。 小説というスタイルで描かれた『69』と、批評的自伝というスタイルで貫かれた『ハイスクール1968』では、成立事情が異なることもあるでしょう。しかしそれは、四方田氏の現在の仕事が、1968年という時代を単なる過去として葬り去ることのできないものとして継続しているからではないか、と思うのです。

 四方田氏の仕事ぶり、あるいは人となりを語れるような立場にはありませんが、しかし以前から感じていたのは、四方田氏のどこか何かに「つんのめる」ような、前置き抜きでいきなり本題に入っていくような、息をつく暇も、相槌を打つ暇もないような仕事のスタイルはどこから来るのだろうか、と長らく不思議に思っていたのです。しかし、本書を読んでその謎が解けたように思いました。

 教育大附属駒場高で行われたバリケード封鎖は、大人の目から見れば「大学紛争の真似をした世迷いごと」、「面白半分の悪ふざけ」の範疇を超えないものだったかもしれません。しかし、それを経験した本人たちにとってはとうていそのような気軽なものではなかったのです。三十年以上経って、バリケード封鎖に関わった友人に再会し、話を聞いた際の、友人たちの反応を見てもそれは明らかです。今もなお、なんらかのかたちで彼らのなかで生命を持ち続けている、ごつごつとした経験なのです。そこにどんな政治的な意味があるのか、というような問いかけのレベルではない、もっとこころの奥深くに根付く何かなのです。

 バリケード封鎖はほとんどあっという間の幻のようにして、跡形もなく消えてしまいます。そこで四方田氏は体当たりしようとしたドアを直前で開けられてしまい、そのままたたらを踏むように、つんのめったまま走るしかなかったのではないか。頭を掻いて照れ隠しをするでもなく、言いようのない怒りを持ち続けたまま、見えないドアの向こうへとつんのめりながら走り出すしかなかった──それが四方田犬彦氏の仕事のスタイルだったのではないか、と思いいたったのです。

「つんのめる」というのは、言葉を変えれば、「分別くさくなることを排除し、安住の地に留まらない姿勢」です。四方田犬彦氏の仕事から蹴りだされ排除されているものは、「大人ぶること」「分別ざかり」なのです。四方田氏は、いつも何かに急き立てられるように語り、書き、旅をしているように見えます。その四方田氏を「急き立てる」ものの正体が、この本によって明らかにされたと感じました。

 本書にも書かれているように、1968年といえばビートルズの『ホワイト・アルバム』が発表された年です。「ミッシェル」や「ノルウェーの森」が収録されている『ラバー・ソウル』は、そのたった三年前の1965年に発表されています。68年にはすでに解散に向かって突っ走っていたビートルズの『ホワイト・アルバム』は、バラバラになりつつあるグループの、それぞれのメンバーのやりたいことが一見野放図に詰め込まれたようになっています。しかし、70年以降のロックという表現ジャンルが繰り返しコピーをし、再生産したものの原型が、様々なひきだしのなかで用意されている無手勝流の傑作です。優れたアルバムではあるもののどこか牧歌的にも響く『ラバー・ソウル』からは遙か遠く離れた印象のある音楽が『ホワイト・アルバム』には刻まれているのです。しかし、その間はたったの三年。この三年の時間の流れは、現在の私たちの時代の流れとなんと大きく隔たっていることでしょうか。

 現在という時代は、一年前も、五年前も、ほとんど何も変わらないように感じることがあります。オウム真理教の地下鉄サリン事件にしても、神戸の少年の事件にしても、その当時の時代の空気と、今の時代の空気はほとんど寸分も違わないままではないのか、と思わずにはいられません。それは、風がとまってしまったような、言いようのない息苦しさも伴っています。時代のスピードが異様に速いのか、あるいは時代の流れが完全に停滞してしまったのか。それは高速度で回転する物質が、一瞬止まって見えるような錯覚に近いものなのでしょうか? 

 1968年という時代には、現代の十年分にも匹敵するような時間が詰め込まれていたことを本書は雄弁に語っています。
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