Kangaeruhito HTML Mail Magazine 076
 幼なじみ

 出張先の沖縄で、小さなギャラリーに立ち寄ったときのことです。平日の午後、他に人はいませんでした。ひととおり作品を見てから入り口脇に座っていたら、窓ガラス越しに車が一台駐車するのが見えました。車から降りて来た男性に目がいくと「あ」と声が出ました。知っている人です。以前に仕事をしたことのある人。

「あー、マツイエさん!」ギャラリーのドアを押し開けながら向こうも声をかけてきます。「いやあ、どうも!」こちらも中途半端に腰を上げて挨拶をします。「偶然ですねえ」お互いにびっくりした顔を見せ合います。偶然とは言っても、それぞれが仕事の上でこのギャラリーに立ち寄る理由がありましたから、まったくの偶然とは言えません。しかし二人ともふだんは東京で働いていますから、ある日の午後の、おそらくはピンポイントのような約10分ほどの間に、お互いが出会う確率はかなり低いはず。

 彼はギャラリーの入り口に置かれた芳名帳を見るともなく見て、「マツイエさん、Aに住んでるんですか?」と意外そうな顔で聞いてきます。「そうですよ、生まれも育ちもAです」「へえ、ぼくもAに住んでたことがあるんですよ、小学校の頃」「そうですか。ぼくはA小学校でしたけど」Nさんは目を丸くしました。「いやあ奇遇ですね! ぼくは転校生だったんだけど、4年生のときからA小学校だったんですよ」「へえ! じゃあ学年は違うかもしれないけど、ちょっとすれ違ってたかもしれませんね。Nさんは何年生まれですか?」「ぼくですか? 昭和33年」「え?……ぼくも33年」「え……」

 要するに、二人は同じA小学校で4年生からの3年間、隣のクラス同士だったらしいのです。Nさんは3組、私は2組でした。Nさんとは数年前に仕事上で知り合い、何度となく顔をつき合わせてかなり密なやりとりもしてきた人なのですが、まさか小学校の同じ学年にいたとは気づきませんでした。

 Nさんはなんとなく不満げな顔をしています。たとえクラスが違っていたとしても、お互いを知らないはずはないのに、という表情。実は私も、Nさんが同級生だったというのがちょっと腑に落ちません。Nさんはちょっといたずらっぽい笑顔に変わって言います。「ぼくは野球で鳴らしてましたからね。あの時の6年生ではいちばん野球がうまかったんですよ、野球といえばNってみんな言ってたんだけどなあ」うーん、思い出せない……。それに私はNさんみたいにとくに主張できるような特徴もなかったしなあ。

 小学校で思い出すのは、私よりも成績優秀だった同じクラスの女の子のことや、成績も性格も運動神経も良くてまぶしく見上げるような男の子のことです。しかし今彼らがどこで何をしているのか、同窓会もクラス会もずっと開かれていないので、まったくわかりません。Nさんが言います。「I君、覚えてます?」(そうです、三拍子揃った彼のことです)「ああ、あの優秀なI君、もちろん」「彼は慶應の法学部を卒業して、30歳になってから弁護士になったそうですよ」「へえ、彼らしいですね」I君の名前が出て、初めて(ああ、やっぱりNさんは本当に同級生なんだ)と納得します。が、やっぱり肝心のNさんを思い出せない。Nさんも私のことを思い出せないようです。

 しばらくA小学校の話で盛り上がったものの、最後まで二人がお互いを記憶のなかで認識することができないまま、私たちは別れました。別れ際の二人は、また仕事上のつき合いの笑顔に戻って、屈託のない会釈をし合いました。しかしちょっと不思議な感じも残りました。あれだけ顔をつき合わせて仕事をしていたのに、今までまったくそのことに結びつかなかったとは。私は沖縄から帰京してから、今もときどきNさんのフルネームを頭のなかでぶつぶつとつぶやきながら暗い記憶の底に懐中電灯の光を当てています。

 実は私の娘もいま、同じA小学校に通っています。この春に4年生になりました。私の頃のA小学校は各学年3クラスあり、1クラスに40人前後いたと思います。しかし娘の場合は全学年が2クラス、30人前後。大雑把に言えば子どもの数は半減したことになります。校舎は昔のままなのですが、もちろん先生は全員違います。違うばかりか、私よりも年下の先生のほうが多いのです。いやはや、光陰矢のごとし。

 沖縄で意外な人に出会い、小学校時代のことを思い出し、なんとなくセンチメンタルな気分になりましたが、それならばとクラス会や同窓会を開きたい気持ちになったかと言えば、それはそうでもありません。時間が経ち、それぞれの人生が展開しつつある最中に、30年以上会っていなかった者同士がいったいどんな顔をしてどんな話をすればいいのでしょう。だいいち、久しぶりに会っても顔も名前も思い出せないのではないか。そんなことを勝手に想像し、勝手に心配しながら、今回の不思議な偶然の出会いを「しかし不思議だなあ」と呟くばかり。こういう出来事のことを「春の椿事」というのでしょうか。だいたいどうして「椿事」は春なのか。春はそういうことが起こりやすいのでしょうか。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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