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鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』
(新曜社)


 高校生の頃、東中野で開催された鶴見俊輔氏の講演会に出かけたことがあります。東中野の駅を降りてしばらく歩いていると、道の途中で鶴見氏が少し迷われたような様子で佇んでいたので、声をおかけし、結局私が会場までご案内した、ということがありました。

 初めて聞く鶴見氏の喋り方は、どこか明るい独り言のような感じが漂っていて、哲学者・思想家の難しい、重苦しい話を聞くという感じがまったくありませんでした。大学生の同好会の部室のように会場が狭かったせいもあるでしょうが、少し早口で、笑顔が絶えず、次から次へと連想が繋がっていく談話の面白さは、鶴見氏の文章の魅力とはまた別の「芸」が感じられました。

 本書の成り立ちは、共著者として名を連ねている小熊英二氏が、労作『〈民主〉と〈愛国〉』を書き終えた後に企画したものです。数年間、出版社に勤務していた小熊氏の編集者としてのセンスが、本書を立案した時点でその成功をほぼ決めていたのだと思います。サブタイトルは「鶴見俊輔に戦後世代が聞く」。それも小熊氏が単独で聞くのではなく、もうひとりの聞き手、上野千鶴子氏を加えて、インタビューをさらに立体的なものにしようとした感覚もまた小熊氏の編集者としての秀でた能力を証明しています。

 冒頭の鶴見氏の発言を引用してみましょう。

「今回は、完全に三日間を空けてありますから、もう私も八十歳だから、余命から計算したら大した時間ですよ(笑)。聞いていただければ、なんでもお答えします」(『戦争が遺したもの』より)

「なんでもお答えします」という言葉は挨拶がわりのものではありませんでした。鶴見氏は幼少の頃からの自分の人生について、敗戦前に留学先のアメリカから帰国した心情や、海軍軍属時代に担当した従軍慰安婦との関わりについて、あるいは六十年安保で抱いた高揚感の内実について、きわめて率直に、装飾や粉飾のない語り口で明らかにしています。

 小林秀雄が敗戦後の座談会で言った有名なセリフ「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」は、戦争中に軍国主義を支えてきた古い旗をさっさと投げ捨て、新しいイデオロギーの旗をふり始めた敗戦直後の日本の知識人たちへの痛烈な皮肉でした。しかし、日本の敗戦を確信しながら、戦争中に敢えてアメリカから帰国した鶴見氏は、帰国の動機をこう語っています。

「日本はもう、すぐにも負けると思った。そして負けるときに、負ける側にいたいっていう、何かぼんやりした考えですね。というか、勝つ側にいたくないと思ったんだ。この戦争については、アメリカのほうがいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられないと思ったんだ」

 本書を通読しながらあらためて感じたのは、戦後の日本の知識人のなかで鶴見俊輔という人がどこか決定的に異質な存在だということでした。本書の語り口にもはっきりと現れているその「透明性」は、やはり留学先のアメリカという国から与えられた影響が少なからずあるはずです。しかし同時に、アメリカというキーワードだけでは到底説明できないものが残ります。それは、やはり鶴見俊輔というひとりの人間が、幼いころから培ってきた内面の感受性やその発露のあり方だったのではないかと思います。

 海軍の軍属時代に、従軍慰安婦に関わる仕事をしていたとき、鶴見氏の目の前に現れた光景は、そのまま鶴見氏の内面の姿を鮮やかに映し出すようです。

「夜中に女性の手配に街まで行く道の途中で、ジャワの田んぼの上を、蛍が飛んでいたのを覚えています。道案内をしてくれる現地の人がね、『ほたる、ほたる』って言うんだよ。蛍っていう日本語を知っているんだ。自分が戦争のなかで、こんなところでこんな仕事をしていて、そこにきれいな蛍が飛んで……。その妙な感覚は、いまでも印象に残っています」(『戦争が遺したもの』より)

 そう言えば、敗戦後の小林秀雄の目の前にも蛍が飛んだことがありました。

「終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。日支事変の頃、従軍記者としての私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った。(中略)母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかったし、話した事はない。(中略)仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。」(小林秀雄『感想』より)

 アメリカ留学までは手のつけられない不良少年だったという鶴見氏は、いつもどこかに「明るい捨て鉢」のような突き抜けた態度があるような気がします。不良少年という個性と戦争という歴史が作ったかもしれない「捨て鉢の力」とでも言うべきものは、戦後生まれの私たちに決定的に欠けているものなのではないか。『戦争が遺したもの』の読後にやってきたのは、そんな意外な感想でもありました。
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