2007年春号「短篇小説を読もう」で、丸谷才一さんにお話をうかがいました。短篇小説のおこりから、ヨーロッパ各国やアメリカあるいは日本では、言語や文化、メディアの状況のちがいによって、短篇の手法やその性格にどんな違いがでてくるか――などなど、広く俯瞰しつつおのおのの小説に切り込んでゆく、丸谷さんならではの刺戟的なお話でした。

 今号の特集「海外の長篇小説ベスト100」でも、短篇小説につづいて、丸谷さんにぜひ長篇小説をめぐるお話をうかがいたい。まず入口にと思ったのが、「偉大なるアメリカ小説」についてです。前回のインタビューのなかで、短篇小説と長篇小説の違いに話がおよんだとき、丸谷さんは「グレイト・アメリカン・ノヴェル」について言及されました。われわれは「偉大なるアメリカ小説」をもっていない――批評家が言い出したそのことが、長くアメリカ文学を呪縛してきた。そのときアメリカの文学者たちの頭にあったのは、もちろん「偉大なるイギリス小説」でしょう。

 けれども、そもそもアメリカには、本当に「偉大なるアメリカ小説」は存在しなかったのでしょうか。

丸谷 よく考えてみると、この説はちょっとおかしいかもしれない。たとえば『ハックルベリー・フィンの冒険』とか『白鯨』なんか非常にグレートではないか。これに対し、『ハックルベリー・フィン』は少年小説だろう、『白鯨』は海洋小説で寓意的なものだから違うんだというふうにいちいちケチをつけて外していく。結局、イギリス型の写実的な社会小説のようなものがないというところへ話をもっていって、それを慨嘆する(笑)。

 アメリカの批評家がこのように嘆くことしきりだったのには、リーヴィスというイギリス人による『偉大な伝統』という本――ジェイン・オースティン、ジョージ・エリオット、ヘンリー・ジェイムズ、コンラッドとつづく系譜を礼讃したもの――の影響が大きいだろうと丸谷さんはおっしゃいます。アメリカ人が圧倒されたのもわかるような偉大なるラインナップですが、でも――。

丸谷 長篇小説というのは、原理的にいって水増ししようと思うといくらでもできる。スリー・デッカー・ノヴルといって、三巻本の長篇小説という言葉がイギリス文学にはあるんです。『吾輩は猫である』は最初三巻本で出た。あれはイギリスの影響を受けているんです。つまり、外国からきた作家志望の中年男(漱石のことです、念のため)が影響されてしまうくらいに、スリー・デッカー・ノヴルという出版形態がイギリスでは盛んだった。

 すなわち読者に三巻買ってもらわなければならないわけですが、そのために、上巻の終わりと中巻の終わりには、さてさてどうなりますか、という盛り上げが必要になってきます。イギリスの長篇小説はその出版形態のせいで非文学的になったという説があるほどだとか。一方で、この形態に疑問をもって意識的に締まったものを書こうとしたスティーヴンソンなどの作家もいました。

 とにもかくにも18世紀のイギリス長篇小説がフランスに渡って、双方が刺激しあって19世紀ヨーロッパでの長篇小説の隆盛を迎える。そしてそれがロシアに渡り、かつてない大小説が続々と誕生した。それがさらに世界に波及し、長篇小説という表現形態が、文学の主流になっていったわけです。

 さらに丸谷さんのお話は、近代の国民国家の誕生と近代小説の隆盛がおおいに関係があること、小説を論じるとき基準にすべき三つの視点、長篇小説と都市小説の関係、本歌取りにもよく似た小説のハイジャック方法などなど、長篇小説がさらに面白くなるお話が山盛りです。