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水村美苗『本格小説』(新潮社)


「軽井沢の別荘」という言葉のイメージは、いつしか「紋切り型」のイメージしか喚起しない、やや気恥ずかしいものになってしまったようです。しかし、気恥ずかしさのあまり「見ないふり」をしているあいだに、その実態は寂しいものへと変貌し始めています。たとえば観光客がひしめく旧軽井沢のメインストリートを離れて一歩奥へと入ってみると、真夏のハイシーズンなのに雨戸が閉め切られ、しばらく誰も使った様子のない古い別荘が薄暗く静かに佇んでいるだけという光景にしばしば出くわします。

 おそらく別荘を手に入れて頻繁に利用していた第一世代を経て、第二世代、あるいは第三世代へと別荘が手渡されてゆくうちに、様々な理由で利用されなくなったのでしょう。さりとて売却もされず、湿度の高い軽井沢の森のなかで、苔むして、水気を含み黒々となった古い建材が、音もなくゆっくりと朽ち果てようとする、そんな過程にある別荘が少なくないのです。

 身も蓋もない言い方をすれば、「軽井沢の別荘」という言葉は「文学」という言葉に置き換えることも可能なのではないでしょうか。十年、二十年前よりも、「文学」は「文学」として語られることがますます確実に少なくなり、それはもう少しフラットで中立的なニュアンスを含んだ「小説」という言葉にシフトしているのかもしれません。「別荘」という言葉を容易に口に出せない所有者が、それを人前で「山小屋」と言い換える心理にも似て。それでは「文学」も「軽井沢の別荘」と同じく、音も無く朽ち果てようとしているのでしょうか。

 水村美苗氏は一九九〇年、漱石の未完の長篇『明暗』を書き継ぐ『續明暗』で登場し、読書界に静かな衝撃を与えました。その五年後に『私小説 from left to right』を、そして七年後に本作『本格小説』を発表しました。欧米の作家では必ずしも珍しくはない、作品と作品の間に数年の時間が流れる執筆のスタンスは、第一作が漱石の遺作を書き継ぐという、方法論抜きでは成立し得ない作品であったように、二作目も、そして本書も、ある強固な方法論が検討された上で執筆が開始されている、という事情も働いていたことでしょう。

 小説家が方法論に拘泥し始めると、小説じたいが窮屈になり、新鮮な空気が流れなくなることがあります。読む歓びがどこかへ置き去りにされてしまうのです。しかし、水村氏の方法論的執筆態度が異例なのは、書き上げられたものが無条件に面白いということ。文章が、物語そのものが自然に流れ、登場人物には血が通い、小説家の手を離れたかのように生き生きと動き始めるのです。物語の面白さとはまさにこういうものだった、という素直な感想が読み進める者に福音のように降り注ぎ、途中からは「どうかこの物語が終わりませんように!」と念じたくなる十九世紀の小説のような感興を読者に呼び覚ますのです。

 本書は軽井沢が重要な舞台として登場します。そして、朽ちかけようとする別荘も。物語のあらすじは、ことに本書の場合、事前に把握することなく読まれることをおすすめしたいと思います。誰がどのように登場するか、登場人物がどんな背景を持って動き出すのか、物語を読み進めながらそれらを同時進行のように経験することの素晴らしさを鮮やかに届ける本書には、ストーリーの説明ほど野暮なものはないと思います。

 文学がかりに「朽ち果てる別荘」だとしたら、水村氏はまずは無条件にそれを買い取ったのです。そして設計当時の図面を精査し、構造を確かめ、水回りを点検し、補修すべきところは補修して、誰が訪ねてきても心地よく過ごせるように室内を全面的に改装した。それらはきわめて具体的かつ繊細に行われて、「朽ち果てる運命」にあったはずのものを甦らせたのです。安普請の、あるいは新奇なデザインばかりが全面に出て、いっこうに居心地のよくない新築別荘にはとても及ばない品格をもちながら。「小説の方法論」とは、小説を壊すものとは限りません。「文学」という言葉に過敏に反応することでもない。過去に完成を見た芸術表現の素晴らしさに敬意を表して、その上で丁寧に「手入れ」をし、新しい感興を創造することがあっていい。水村氏はこの長篇を執筆することによって、そのことを証明したのです。

 水村氏がこれだけ強固な小説に対するスタンスを持ち得たのは、やはり十二歳の時に日本を離れたことが大きかったのではないでしょうか。日本から遠く離れていたことで、水村氏は何かを守り抜くことに成功したのです。そのあたりの詳しいニュアンスや事情も、本書ではフィクションというフィルターを通しながらも、さりげなく率直に綴られているように思います。小説家・水村美苗の生成の物語としても読み替えることが可能な、上巻の冒頭から三分の一以上のページを費やして語られる「本格小説の始まる前の長い長い話」の章の面白さ。それは、本書を通読した後にふたたび読み始めたくなること必定の、水村氏ならではの鮮やかな「仕掛け」にもなっているのです。
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