Kangaeruhito HTML Mail Magazine 099
 

高野文子
『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』(講談社)
マルタン・デュ・ガール著 山内義雄訳
『チボー家のジャック』(白水社)


 大学受験をひかえた夏休みに入ると、私は予備校には行かず、毎朝、家から歩いて十分ほどの図書館に通い始めました。その小さな二階建ての区立図書館は川沿いにありました。川、といってもコンクリートで深々と護岸工事がされており、見下ろせば、どんな事情があったのか雑多なゴミをまとった自転車が落ちていたりもする、味気ない川でした。

 その図書館に朝からやってくる人々は、実は本を借りることが目的ではなく、二階の図書閲覧室めあてなのでした。高校生や浪人、大学生がほとんどでしたが、法律の勉強をしているらしい様子の人や、隠居という年齢でもなく、かといって所帯じみた気配もない、しかし熱心に何か調べものをしていることだけは確かな、不思議な感じの中年男性の常連もそこに混じっていました。

 九時開館でしたが、閲覧室めあての人たちはその二十分ぐらい前から図書館の玄関先に並びます。それはいい席を確保するためです。「いい席」とはすなわち「はじの席」。閲覧室には六人がけの大きなスチール机がたくさん並んでいますが、机上は仕切りで二つに分けられていて、それぞれ三人が横に並んで座れるようになっています。開館時刻前に並べば、左右のはじの席が優先的に確保できるのです。左右から挟まれる中央の席は不人気でした。

 昼食以外の時間は、閉館の五時までずっと席に座り詰めでした。自宅だと気の散るモノがいっぱいありますが、机に向かうしかない空間で、やはりずっと座り詰めで勉強をしている「同類」がいるとなれば、自ずと勉強に集中するしかない、という仕組みです。

 誰とも口もきかず勉強だけしている一日のなかで、一時間だけ自分に許していた「息抜き」がありました。それは本を読むことでした。毎日読み進めて夏休み中に読み終えたのが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と『悪霊』です。今思えば、とても「息抜き」とは言えない本の選択でした。しかし、やはり今思えば、あの夏休みに読んだというシチュエーションを抜きにして、私のドストエフスキーとの出会いはなかっただろうとも思うのです。

 寡作な漫画家、高野文子氏の現在のところ一番新しい作品集の表題作「黄色い本」は、やはり同じ頃(私と高野氏はほぼ同世代です)、新潟の地方都市で高校三年生だった、おそらくは高野氏とほぼ二重写しになる女性主人公の物語。彼女は、学校の図書室から借りたマルタン・デュ・ガールの大長篇小説『チボー家の人々』にどっぷりとはまり込むことになります。学校で、家族のなかで、ひとり本を読み続けるという日常の手触りは、読書好きの人であれば懐かしくも深い共感を覚えるはず。

 高校生の頃の読書とは、そしてその後の生き方に微妙な何かをなげかけるような本との出会いというものは、このように外見的にはごく密やかなものであり、しかし本人の内面では、目の前の現実を凌駕しかねないほどのリアルさと切迫感に満ちたビジョンをひき起こします。この密やかで激しい「運動」を、これほど鮮やかに描いた作品を私は他には知りません。

『黄色い本』のなかで、個人的にはなんといっても、彼女の父親の存在が強い印象として残ります。作品の末尾、日当たりのいい物置の屋根の上で本を読みつづける娘に向かって、庭先で作業をしながらさりげなく、しかし何かの思いをこめて語りかける父親の言葉の素晴らしさはどうでしょう。高野文子氏の漫画の底辺には、つねに「肯定」の気配が横たわっています。それはどこから来るのか。私は彼女と父親とのやりとりに、高野漫画の「肯定」の水源地にたどり着いたような感慨を覚えました。

『チボー家の人々』の主人公ジャックが登場する部分を大長篇のなかから抜粋し、丁寧に加筆編集して一九四八年にまとめられた一冊が『チボー家のジャック』です。『黄色い本』が機縁となって、この一冊を函入りの黄色い本として甦らせたのが高野文子氏の装幀。本とは、昔こういうものだったのだ、とつくづく思わせる静かなデザインは、昔のオリジナル本へのオマージュです。

『チボー家のジャック』の魅力については、巻末に付されている山内義雄氏の「訳者あとがき」から引用するのがいちばんふさわしいのではないでしょうか。『黄色い本』にその片鱗が通奏低音のように登場する『チボー家のジャック』を続いて読みたくなること請け合いです。ちなみに、この「訳者あとがき」は、奇しくもマルタン・デュ・ガールが亡くなる一九五八年八月に書かれています。当時の日本の状況を想起させるともいえますが、いまもなお、私たちの胸に響く言葉です。

「第二次世界大戦に敗れたのちのわが国の現状について考えてみても、これまでのあらゆるおきてはくつがえされ、しかも、新しい秩序が打立てられるまでには、このさきずいぶん長い不安と動揺の時を経験しなければなりません。そして、こうした不安動揺の時期に身をおきながら、いつも自分自身の《判断》にもとづいてその日その日の一挙手一投足を決定しなければならない場合、そうした《判断》を持つに先だって、まず《われらいかに生くべきか》の問題、《われらなにをなすべきか》の問題を考えさせてくれるもの、すなわちこの『チボー家のジャック』だと言うことができると思います」(『チボー家のジャック』訳者あとがきより)
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