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『神谷美恵子の世界』みすず書房編集部編
(みすず書房)


 ロングセラー『生きがいについて』の著者、また、精神科医としてハンセン病患者のケアや美智子皇后の相談相手もつとめた神谷美恵子については、連載「考える人」の第六回で坪内祐三氏がすでに取り上げています(2003年秋号)。坪内氏は神谷美恵子が28歳から31歳までに綴った『若き日の日記』を軸に、1960年46歳の頃から執筆を始め1966年52歳で発表した『生きがいについて』に至るまでの、人生と精神の軌跡を追っています。

 坪内氏の引用する神谷美恵子の日記の文章は強烈な印象を残します。たとえば、こんな文章。「将来は、医師として、あるいは教師としてどこかで小さな業を為しつつ思索と読書と執筆の生活を送りたい。なるべくなら結婚はしないで済ませたい。何故ってこの恐ろしく強烈で複雑な私の自我は到底殺し得べくもなく、またこれを包容し得るような人のある筈もなく、うまく調和し合えるような人は尚のこと稀であろうから」(『若き日の日記』より)

 しかし神谷美恵子(旧姓前田美恵子)は終戦の翌年、生物学者の神谷宣郎と結婚し、やがて二人の男の子の母親になります。坪内氏はもう一冊の日記『神谷美恵子日記』(角川文庫)を引用しながら、このように書いています。

「優秀な生物学者である夫の妻として、そして二人の男の子の母として、すなわち家庭の主婦として、彼女は、献身的な努力を重ねて行きます。
 しかしその間に煩悶もあります。
『自己を失うのか! と思うと愕然とする。その自己は何処へ行ったのだろう。また帰って来るのか、それとももうこれきり、私の自我というものは夫と子供のうちに吸収されてしまうのか、これきり私が自分でものを考えたり、創ったりする能力を失ってしまうのだとしたら!! と恐ろしい気がする』(一九四六・五・三十)。『時々泣きたいほど勉強に専心したくなるけれど、そういう時はいつも岡本かの子のとった道を思い出す。負けて勝つことだ。もし私にも家庭以外に何か使命があるならきっといつか神様は道を拓いて下さるだろう』(一九四六・九・二十二)。」

 本書『神谷美恵子の世界』は、先月から刊行が始まった『神谷美恵子コレクション』(全五巻 みすず書房)のサブテキストとして編まれたものです。幼い頃からの家族写真や、原稿、書簡、日記などの資料、そして身の回りの品などが多数紹介され、また、鶴見俊輔、加賀乙彦など生前に神谷美恵子と交流があった人々による書下ろしエッセイも収録されています。社会的な顔、家族内での顔、文学者としての顔……様々な顔を持ちながら、ふりかえればひと筋の道だけを歩み通したといえる神谷美恵子の六十五年の生涯を、多面的に見渡すことのできるように構成された読み応えのある一冊です。

 なかでも私が注目したのは、このなかに収録されている講演録「フレッシュマンキャンプのために」でした。津田塾大学のOBとして、津田塾大学に入学して間もない学生に向けた1968年の講演です。「学ぶ」ということについて、「本を読む」ということについて、そして「生きがい」について語られています。そして社会に出たあとにどのように働き、生きたらいいのか。神谷美恵子は津田塾の卒業生に共通するある傾向を念頭に置きながら話を進めます。そのなかにこんなくだりが出て来ます。

「なにかを一生懸命やるということは結構ですけれども、常にあらゆる時に頑張っていればいいかというとそうではなくて、人生にはいろんな時がありますから、自分の力を出しきることが許される時にはおおいに出して頑張るし、引いたほうがいい時には上手に引っ込んでいるというふうに、伸縮自在の弾力性を身につけるということも、津田の人には特にこれから必要ではないかと思います」(「フレッシュマンキャンプのために」より。以下同)

「あまりにもお母さんが張りきりすぎると、子供がノイローゼ気味になってしまったり、またぺしゃんこになってしまって自分の力がよく出せないという場合もありますから、お母さんがむしろ引っ込んでるほうがいい。お母さんが少しのろまにみえたほうがいいということもあるらしいですね。お母さんは放っておいたら、あんなにノロノロしてしょうがないから、こっちが頑張ってやろうという気を出して、子供が一生懸命やるという場合もたしかにあるんですから……。特に津田の人は、家庭に入ってお母さんになった場合には、少し馬鹿のふりをしたほうが、かえって結果はよいのではないかというふうに、私などは、思ってしまうのですね」

 いかがでしょうか? 日記のなかに書かれていた神谷美恵子自身の問題が、長い時間を経て消化され、自らの経験から生みだされた言葉となって若い人たちに向けまっすぐに伝えられています。一般論、あるいは理想論ほど人のこころに届かないものはありません。神谷美恵子という人の具体的な人生から導き出された言葉だからこそ、学生たちのこころにはきっと何かが残されたはずだと思います。生きることにつねに真摯であろうとした神谷美恵子という人の、生きる姿勢があぶりだされたこの素晴らしい講演を、読むだけでも十分に価値のある本でした。
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