Kangaeruhito HTML Mail Magazine 104
 手抜き

 私は小学生の頃から同じ床屋に通っています。入社後まもなく自宅を出て、一人暮らしを始めてからも、わざわざバスに乗り、小一時間をかけて同じ床屋に通っていました。今はふたたび実家の近くに舞い戻ったので、その床屋へはまた歩いて通うようになりました。

 床屋には注文をつけません。というか注文をつける暇がないのです。首回りにタオルを巻き、首から下をぐるりとクロスで覆い、耳もとでちょきちょきと鋏の音がし始める頃には、条件反射のように猛烈な睡魔に襲われて、首はがっくりと前へと折れ曲がってしまいます。そばで他人が見ていたら、あまりに短時間でガクンとなってしまうので、催眠術にかけられたように見えるかもしれません。それからは洗髪をする間を別にすれば、ずっと居眠りの態勢に入ってしまいます。だから鏡を見ながらああだこうだと注文をつける暇などないのです。

 深く眠り込んだ意識が何かの拍子で水面近くまで浮上してくることもあり、そんなときには、(……あー……こんなに首が折れ曲がって……鋏は使いにくいだろうなあ……申し訳ないなあ……)と薄っすらと考えたりもするのですが、浮上しかけた意識は、まもなくずっしりとおもりをかけられたように、暗い海の底へとふたたび引きずりこまれます。

 床屋での居眠りは私にとってひそかなよろこびなのです。だから、映画「ゴッドファーザー」の後半、床屋で散髪中の人が椅子に座ったままマフィアに殺されてしまうシーンは、あまりにも衝撃的でした。からだの奥深くから恐怖がわいてきたことを覚えています。床屋において「あってはならないこと」が起こる恐ろしさ……床屋の必需品である鋏や剃刀は凶器になりうるものです。しかしその可能性を一ミリでも認めてしまったら、他人に首をあずけて居眠りできるはずもありません。

 そんな状態なので、私は床屋についてあれこれ意見を言える立場にはありません。床屋は私にとって極楽のような場所であることはその通りなのですが、しかし問題点もないわけではありません。床屋での散髪における私にとっての問題点とは何か。

 まず、髭剃りが執拗に深剃りであること。これには長い間悩まされました。剃る部分を指でつままれて、少し髭を押し出すようにしながらソリソリソリと髭を削り出すのです。剃り上がった後は、手のひらで撫でても、髭のチクチクがまったく手に触れないほどつるつるになります。がしかし、肌の弱い私の場合は、剃刀に皮膚が負けてしまい、髭剃り後には顎や喉の周辺が真っ赤になって荒れてしまうのです。ぴりぴりと痛いほど。これが辛い。

 問題点、その二。シャンプーの後につけるヘアトニックのせいなのか(どうもそれだけではないような気もするのですが……)、床屋から帰宅すると全身が「床屋くさく」なってしまうこと。生え際が一直線に切り揃えられ、普段よりも念入りにドライヤーで撫で付けられたぴかぴかの髪型と床屋の匂いの相乗効果がなんとも気恥ずかしい。

 私はなかなか言い出せない性格なので、髭剃りをやめてもらうこと、ヘアトニックをつけないでもらうことをお願いするのにずいぶん時間がかかりました。まずはヘアトニックをつけないでもらうことから始めました。しかし、お願いしてあっても、髪を切り、顔を剃り、シャンプーをし……と作業が進むと、ヘアトニックをふりかける段階で床屋さんの手がすーっとヘアトニックの瓶に伸びるのです。一度は「あ」と声を出す間もなく、ヘアトニックが威勢良くかけられてしまいました。その後も、「あ、ヘアトニックは……」「あ、あ、そうだったですね、ごめんなさい」というやり取りが何度もあって、最近はかけられることがなくなったのですが。

 髭剃りも同じでした。どうしても髭剃りの段階になると、シェーヴィング・キットが運ばれてきて、泡立て用のブラシが登場してしまうのです。これもしばらくは何度となく「あ、髭剃りは結構です」「あーそうだったですね、ごめんなさい」というやり取りがありました。床屋さんもなんとなく腑に落ちないようなやりにくさを覚えたはずです。手を抜くのは簡単だ、と言われますが、実は無意識のうちに練られて完成した一連の動作というものは、なかなか省略するのが難しい、のだと思います。

 いちいち頭で考えることをせずとも、勝手にからだが動いてしまう。クルマの運転も、ハンドブレーキやギアチェンジや安全確認の動作を頭で考えながらやっているのではなく、自然に動作が連続します。暗譜したピアノ曲を発表会で弾く段になって、楽譜なしではとても弾けない、と感じたとしても、いったんステージにあがって鍵盤に触れれば、おのずと指先が動き出します。毎日餃子を包む作業をしていれば、ひとつひとつの大きさや具の量はおのずと一定になります。

 先日も、三十年以上にわたってウィンザーチェアをつくり続けている家具職人の仕事を見てきたのですが、この方の場合、百項目以上もある作業工程を、鉋屑の掃除や道具の出し入れまで含めて、無駄な動きなく、きわめて合理的に、流れるように進めていました。弟子もとらず、ひとりで作業をされているのですが、椅子が完成した時点では、工房は作業を始める際の掃き清められた状態に見事なまでに戻っていました。

 それでは編集という作業はどうでしょうか? 二十年以上も編集作業を続けてきて、頭で考えずともすらすらと手が動く、というようなことがどれだけあるかを考えてみているのですが、どうもそういう場面が思いつきません。編集という仕事も、練り上げられ、完成度が増してくる仕事であって当然なのですが、どうもそうは思えない。手抜きをするとかえって作業が滞ってぎくしゃくする、わけでもなさそうです。実際、昔の編集者が私たちの仕事ぶりをみれば、「ずいぶん手抜きの仕事をしているねえ」と呟かれそうなことばかりです。それに雑誌の編集者は三十代半ばぐらいまでがピークで、それ以降はアイディアも枯渇し、マンネリになってしまう、という説もあるぐらい。熟練編集者でなければできない仕事は果たしてあるのでしょうか?

 床屋に行きたてのちょっとスウスウする後ろ頭に手をやりながら、なんだか心もとない気持ちになってきました。「熟練編集者」というものの価値はどのあたりにあるのだろう。対作家、という人間関係の面で年の功というものが発揮されるのだろうか。いやいや、コミュニケーションの失敗は、いつまで経っても起こりうる出来事。若い編集者にバトンタッチしたほうがかえってうまく行く場合も少なくないのです。

 編集者、いかに年とるべきか。考えるとこれはなかなか大きな問題だという気がしてきました。まもなく次号の入稿作業を控えて、相変わらず片付かない机に埋もれるようにしながら、ちょっとぼんやりと上空を見上げたりしています。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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