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中島義道『続・ウィーン愛憎』(中公新書)


 中島さんの本はふいに強く情動に働きかけてくることがあります。私の場合、中島さんが目の前にしているシチュエーションとそれに対応する中島さんの反応および対応を追っているうちに、突然、笑い声があがってしまうのです。だから電車の中では危なくて読めません。たとえば『うるさい日本の私』(新潮文庫)。その孤軍奮闘ぶりとその顛末の描かれ方があまりにも可笑しくて、読み終えたときには、そこに描かれている本質的な懐疑への自分の頭の反応と、思わず笑ってしまう場面の連続による身体的な疲れで、なんだかぐったりしてしまうほどでした。一冊分の読書としては考えられないほどカロリーを消費したのではないかと思います。

 私は大学時代、単位取得後も毎年同じ授業をとり続けていたことがあります。それは西江雅之さんの「民族誌」という授業でした。最初の年度は二十人程度の学生しか出席していなかったのに、あまりにも面白いためでしょう、あっという間に口コミで噂が広がって、私が卒業する四年目には大学で一番大きな階段教室が満員になるほどの人気講座になっていました。

 西江先生の授業は、言語学と文化人類学の知見に基づいているのですが、アフリカや中南米などを旅してのフィールドワークの成果と、旅の途上で出会った個人的なエピソードが講義のなかにはたっぷりと盛り込まれていました。西江先生の話し方の特徴は自分で自分の話に思わず笑い出しながら話を進めるところ。その笑いながらの説明がなんとも可笑しくて、こちらも笑い始めてしまうのです。それではその「笑い」はいったいどこから来るのか。

 人間は世界各地を移動し、散らばって、それぞれの歴史と文化を背負いながら生活しています。同じ人間でも民族が違えば、お互いの生活ぶりに目を見張る場面はたくさんあります。火葬をする民族が鳥葬をする民族を「野蛮だ」と感じ、鳥葬をする民族が火葬をする民族を「野蛮だ」と感じる。文化というものは極めて相対的なものです。西江先生の話はたとえばこんな話──。アフリカ、ウガンダの奥地に住むカリモジョン族は、ある時期までいわゆる「裸族」だったのに、奥地にも「文明」が侵入してきて、彼らも次第にTシャツを身につけるようになった。しかし、どうしても恥ずかしくて、パンツだけははくことができなかった。衣服を着るのも脱ぐのもそれぞれの民族の文化の問題であって、身体的には丸裸であっても、心理的には「何がしかの意味」をまとっているからこそ、「パンツをはくなんて、そんな恥ずかしいことはできない」という反応が生まれるのだ、というわけです。

 中島義道さんの本で何らかの笑いを催させるのは、この「文化の違い」、「意識の違い」を明らかにする部分が多いからではないでしょうか。文化が違うために通じないこと、そして通じないことから起こる悲喜劇。『うるさい日本の私』で町に溢れる騒音にひとつひとつ抗議していく中島さんの姿はドン・キホーテ的であり、相手に趣旨が通じなくとも簡単にはひるまないところが圧倒的でした。中島さんの本が働きかける情動はもちろん笑いばかりではありません。「なあなあ」の展開にも、「まあまあ」のなだめにも屈しない姿勢はどこか息詰まるような感覚を呼び起こします。

 三十三歳のとき、日本でのすべての退路を断ち決死の覚悟で渡ったウィーンについては、本書の前篇にあたる『ウィーン愛憎』(中公新書)に描かれています。こちらについては、中島さんの親族、家族との愛憎も手加減なく描かれていて、笑うよりも息を呑む場面が多々登場していました。そして本書はその十年後、学者としての立場も安定し、サッカー好きな息子もひとりいて、と第三者から見れば「幸せを絵に描いたような」人生を送っているように見える中島さんの、センチメンタル・ジャーニーを描いています。しかし中島さんは本書のなかでこう書きます。「意図的に自分を苦しい状況に追い込まなければならないと思った。そうでもしなければ、あのころの自分に顔向けできないような気がしたのである」。

 しかし十年経ったウィーンは、かつて大きな微動だにしないヨーロッパ文化の壁となって立ちはだかっていたはずなのに、今は柔らかいカーテンのように中島さんの顔を撫でてきます。日本および日本文化への高い関心と、ヨーロッパ中心主義に対する彼ら自身の懐疑が中島さんの闘う姿勢を骨抜きにしようとするのです。しかしその一方で、恐らくはグローバライゼイションの波がウィーンにも押し寄せた結果、かつて静かだったウィーンの街もアナウンスや騒音に満ちた街へと変貌し、ウィーンにいるにもかかわらず、『うるさい日本の私』の著者として騒音と闘わねばならない状況になっています。

 本書を読み進めているうちに、そんな新たな展開を目の前にする中島さんの姿勢のなかに、微妙な脱力感がほのみえるのが何とも新鮮でした。まっすぐに立っているとき、後ろからそっと近づいてきた子どもが膝の裏をぐいとひと押し。立っているほうはガクンと膝折れて姿勢が崩れてしまう。そんな風情なのです。がむしゃらに闘ってきた中島さんが、どこかでその脱力感を楽しんでいる気配すらある。もちろん家族との軋轢もやや深刻さを増して、それは隠すことなくそのまま描かれていますから、相変わらず息詰まる場面も多いのですが、なんだか今回は、拳骨を振り上げた中島さんの脇の下を後ろからくすぐる何かがあるのです。

 読者を笑わせる文章を書くのはなかなか難しいものです。中島さんの「巧まざる笑い」を呼び起こす文章は、実はかなり周到に準備された知的な仕掛けが働いていると私は見ています。「泣ける」かどうかが本の魅力として語られることが増えてしまった昨今ですが、「笑える」上に「考える」こともついてくる本書は、やはり独特なポジションを持った希有な本だと思います。
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