Kangaeruhito HTML Mail Magazine 108
 がんばれ子どもたち

 世界41か国・地域の15歳を対象に、OECD(経済協力開発機構)が行った学習到達度調査の結果が一昨日の新聞に掲載されていました。日本は前回8位だった「読解力」が14位に、「数学的リテラシー(応用力)」は前回の1位から6位に、それぞれ落ちたと報告されています。最近語られることの多い「学力低下」を示すものと、誰もが認識せざるを得ないような報道でした。

 ふり返れば、かつては「詰め込み教育」の弊害が論議され、そして導入された「ゆとり教育」でした。もしこの「ゆとり教育」の弊害の解消のために、反対側に大きく針が振れてふたたびかつての「詰め込み教育」に戻るとすれば、笑うに笑えない喜劇を子どもたちに演じさせることになります。「今の教育がすべてを駄目にする」と大声をあげる前に、「何が悪く、何が良いか」をひとつひとつ丁寧に検証すべきです。

 私の子どもは、私自身が40年前に入学した同じ地元の公立小学校に通っています。建物は当時と変わらぬコンクリートの三階建て。プールと体育館も当時のまま。残念ながら校門を入ってすぐ左にあった私のお気に入りの木造平屋の図書館は、当時から老朽化していたため現在は取り壊され、記憶の中だけにとどまることになりました。校門の内側正面にある大山桜は一度枯れかけたようですが、今は大人ひとりでは腕の回らない大きな古い幹から新しい枝も伸びて、春になればちらほらと花も咲くほどに快復しています。

 校長先生以下全員、当時小学生だった私を教えてくれた先生方とはもちろん顔ぶれが違います。過ぎた年月を思えば当たり前なのですが、建物が同じなので少し不思議な感じもします。冷静になって眺め渡せば私よりも若い先生のほうがはるかに多い。生徒は約40年前には1学年3クラスで合計130人ほど在籍していたと思いますが、現在は1学年2クラスで合計60人強。子どもの数は半減しています。

 公開授業や学校行事にはなるべく参加するようにしています。子どもも時折授業の様子を話してくれますし、親も何らかのかたちで授業に参加できる場面も少なくありません。昔に較べると学校の授業の様子を知る機会は飛躍的に増えました。先生にすべてお任せするのではなく、公開性が高まっていることは大変結構なことです。しかし先生にとってはやりにくい場面も多々あるだろうなと想像します。いずれにしても、それらの機会をとらえての印象を総合すると、「私が通っていた頃の昭和40年代の小学校教育に比べて、今の教育は様々な面で優れているところがある」ということになります。

 そのひとつが、子どもたちに人前で話をさせる訓練をさせていること。たとえば日直になると、その日の朝、何かひとつ「気になっている世の中のニュースについて」、あるいは「私がすすめる一冊の本について」といったことを自分でテーマを考えて決め、朝一番に黒板の前に立ってクラス全員の前で話したりもするのです。国語の授業でも、班やグループに分かれて、あらかじめ選んだ詩を、それぞれ抑揚や発声、場合によっては演技力なども工夫しつつ朗読する──そんな発表会も行われます。

 日直のスピーチについてはスピーチの後でクラスメートから質問も受けるようになっており、その場の質問にどう答えればいいか、咄嗟のアドリブ力も試されるようです。また朗読会について言えば、司会進行も生徒が担当し、一つの発表が終わるたびに、それぞれの朗読について感心したことを、あるいは「こうしたほうがよかったのでは」というような感想を、クラスメートに挙手をしてもらい話してもらっていました。「声がもっと大きいと良かったです」というような批評もふくまれているのが新鮮です。

 私の小学生時代は、自分で考えて組み立てた話を教室の前でスピーチする、なんてことはやりませんでした。それぞれの子どもが一生懸命考えて練習をしたであろう朗読の後で、クラスメートから批評を受けるシチュエーションなどさらに考えられませんでした。ここには明らかに、パブリックな場で自分の考えを述べ、またお互いに批評し会う訓練をする、という教育方針が透けて見えます。場の空気を読むことに腐心し、世の中に対して強い肯定も強い否定もせず曖昧に漂いながら生きていく──そんなニッポンスタイルからの脱却をはかる発想がここにはあると感じます。

「結局アメリカ式ディベート訓練の前哨戦なんじゃないの?」という冷めた見方もできるかもしれません。「口舌の徒」を育ててどうする、という批判も出るでしょう。「巧言令色少なし仁」「沈黙は金」という言葉もあります。戦後歴代の首相で私が個人的に好感を持てるのは実は「あーうー」の故大平正芳元首相だったりもします。しかし、これだけメディアが膨張し様々な言説が飛び交い、たったひとつのインパクトある発言が大きな流れをたやすく作ってしまう時代になってくると、「黙ってしまったら相手に従うしかない」状況に加速度がついてきたのではないか──そんな危機感も強くなってきます。少々脱線すれば、最近の皇室の発言にも「黙っているのではなく、敢えて話す」という新しい動きを感じます。昭和天皇の時代には想像もできなかった状況です。そして私は、皇室だって黙っているより話したほうがいい、と思うのです。

 角が立つから黙っていよう、では流されてしまう。 思ったことはその場で言う。私たちはその大切さに気がつき始めているのではないでしょうか。尊敬語、謙譲語が複雑に発達した日本語および日本文化の土壌に、大きな変化を加える過渡期に私たちは今さしかかっているのかもしれません。私は小学生の頃から人前で話すことが苦手でしたし、今も苦手です。しかし小学校での子どもたちの恥ずかしがりながら人前で話すことに懸命に取り組んでいる姿を見ていると、「がんばれ子どもたち!」と声援を送りたくなってくるのです。そして現在の学校教育には優れた部分もたくさんある、先生たちもガンバレ、とも思うのです。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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