池澤夏樹さんは、自他ともに認める「長篇作家」といっていいでしょう。『マシアス・ギリの失脚』『すばらしい新世界』『静かな大地』、そしてこの春刊行された『光の指で触れよ』といった長篇を書きついでいらしたこと、そして昨年刊行の『きみのためのバラ』がなんと12年ぶりの短篇集であったことからも明らかです。

 一方で池澤さんは、読者として、作家として、浴びるように海外文学を読んできた人でもあります。アップダイク、ケルアック、ボネガット、サン・テグジュペリなど、翻訳家としての仕事もあり、『世界文学を読みほどく――スタンダールからピンチョンまで』という世界の十大傑作を読み解いた本も出しています。さらには、昨年刊行が始まった世界文学全集(河出書房新社)の個人編纂者でもある。

 というわけで、海外長篇の特集とあっては、池澤さんのお話を聞かずにおくことはできません。フランスのフォンテーヌブローから帰国なさっていた池澤さんに、19世紀小説の終焉から20世紀以後の長篇小説の変遷とこれからについて、お話をうかがいました。

 長篇と短篇のちがいは第一にもちろん長さにあるわけですが、それは、作品内容にどのような影響を及ぼしているのか、まずおたずねしてみました。

池澤 短篇はある事件を書く。何かが起った顛末を、いわば時の流れの断面で見せるようにして書く。それに対して長篇の基本にあるのは、一人の人間の生涯とか、ある家族の歴史とか、一つの運動の始まりから終わりまでとか、一定の時間の経過を含む。つまり時間というものが人間にどう作用するのか、そのような時間の感覚を含むのが長篇ではないかと思うんですよ。……読み手はある人の生涯にそってずっとその人の脇を歩いてゆく……そういう感じですね。

 ヨーロッパからロシアにおよぶ19世紀小説の特徴の一つは、その完結性にあったといっていいでしょう。スタンダールの『赤と黒』をみても、ジュリアン・ソレルが死ぬことによって完結する。

池澤 人は死ぬものであって、それによって人生はきちんと閉じられる。……小説でそれを表現するのは若いうちは無理だったのかな、と還暦を過ぎた僕は思うんだけど、とにかく小説は死の匂いを少しだけは嗅がせることができる。死によって人生は閉じられるということは文学の大事な原理の一つだと思うのです。

 20世紀に入ると、19世紀的なロマン主義は終わりを迎えます。それはなぜか。

池澤 かんたんにいえば、作家が飽きちゃったんだ、と僕は思うんです。本当に創造的なことをしたいと思う人たちは、もうそのパターンは使い尽くされたと考えた。そしてそのパターンは大衆小説や漫画に行くんです。……いっぽうの、純文学という言葉は適切でないかもしれませんが、それまで書かれなかったやり方で書きたい、真剣に新しいことをやりたいと思う人びとは、いろんな打開策を試みた。小説のゴシップ的側面を突き詰めて心理小説として展開すると、プルーストになる。神話も小説の起源の一つですが、その神話的側面に重心を置くと『ユリシーズ』になる。

 では『ユリシーズ』と『失われた時を求めて』が意味するものはなんなのだろう? そしてジョイスとプルースト以降にやってきたものは? と話はつづいていきます。丸谷さんのお話にも登場した「偉大なるアメリカ小説」から、天才ピンチョンのこと、ヨーロッパによる植民地支配がもたらした、現在の国の枠組みを超えた言語単位の文学のこと、そして21世紀の文学をゆたかにする鉱脈のありかなど、よく読み、よく書く人である池澤さんならではの「文学談義」をおたのしみください。