Kangaeruhito HTML Mail Magazine 120
 火事場の馬鹿力

 もともとは秋の花粉症のはずだったのです。セイタカアワダチソウの花粉が天敵でした。空き地にぐんぐん生い茂り、人の背丈ほども伸びて、黄色い花を咲かせるあの植物です。自分の目で黄色い花を視認する前から、私の鼻はひくひくと気づきます。ある晴れた日の朝、くしゃみが連続し、鼻水が垂れ、頭の芯には小さな痛みが芽吹きます。「あ、咲き始めたな」。空気がからりとする秋晴れの日は、本来なら一番好きな景色であり、気持ちも晴れやかになる頃なのですが、十年ぐらい前から、私にとって秋の快晴は不吉なしるしとなってしまいました。

 その頭痛が、今年からは春にもやってきたのです。そんなバカな、春のスギ花粉は大丈夫だったはずなのに……。しかし症状は秋の花粉とほぼ同じ。ああもう逃げも隠れもできない。会社の行き帰りは「超立体」マスクをし、自宅では空気清浄機の「花粉モード」にスイッチを入れます。やれやれ、連休明けぐらいまではこの調子で行くわけか。ただ、今回はそこに一瞬の油断で風邪も加わってしまったのが百年目。大きな不覚でした。「校了もあるし、今は絶対に風邪はひけない」と毎日念じていたのです。外出先から帰れば手洗いとうがいも励行しました。ちょっとでも怪しい翳りがさせば、「初期消火」とばかりに、家にも会社にもぬかりなく待機させてあるエキナセアとビタミンCの錠剤を矢継ぎ早に摂取していた。それなのに。

 先週の台湾出張に向かう前々日あたりから(──そうなんです。シカゴの出張から戻ってひと月もたたないうちに、今度は三泊四日で台湾に出張していました)、喉がイガイガするな、咳払いが多くなったな、と思い始めた数時間後にはさっそく「ゼナジンジャー」を摂取(これは新潮社の一部の人々の間で風邪の初期症状に効果絶大と噂が広がり、影響を受けやすい私は、これも最近薬棚に加えて併用していたのです)。ところが時すでに遅し。移動中の機内で、上顎が痛くなるほど「カテキン入り緑茶飴」を舐めつづけたにもかかわらず、台湾に到着した夕刻から本格的な咳が出始めたのです。

 初期消火に失敗しても、延焼を食い止めねばなりません。その段階になった場合にも私なりの「秘策」が控えています。就寝時にはマスクを着用(風邪を引いた場合、マスクをつけたままで眠ったほうが治りが早いという研究結果を何かの記事で読んだ)、パジャマの上から首の後ろの付け根あたりとお腹の上に使い捨てカイロをそれぞれ貼りつけ(首は風邪を治すツボ、お腹を温めれば免疫力アップ)、首筋にはさらにバンダナをまきつけ(司馬遼太郎さんの風邪予防法)……と、風邪は無理に治すのではなく、きちんと経過させることによってからだは瑞々しくなる、という野口晴哉『風邪の効用』(ちくま文庫)の愛読者であったはずのオノレも捨てて、全身が対処療法まみれのなんとも怪しい格好になって、十時過ぎにはまんじりともせずベッドに横たわっていました。

 それでも駄目でした。翌日は朝からマイクロバスで、同行の方々と一緒に移動する日だったのですが、その小さな密閉空間で、私は「ケホ、ケホ、ケホ……。ケホ、ケホ、ケホ……」と果てし無く咳をし続けるハメになってしまいました。マイクロバスから蹴り出されてもしかたのない状況でしたが、みなさん耐え忍んでくださり、誠に申し訳ありませんでした。三日目の夜、台北市内では良く知られた店で、ウコッケイの鍋とマトン鍋、葱と腸詰を炒めたもの、と風邪には最高の「食事療法」まで加勢してくれたのですが。日本に帰って来て三日目、咳は「ケホケホ」から「ゲボンゲボン」ときたなく濁音化し、最終局面を迎えています。

 やっぱりひいてしまったらじたばたしても駄目なんだ。本当はあったかくして、睡眠をとって、あせらずにゆっくり治すのがいちばんのはず。しかし、すでに作業が大幅に遅れ、ものによっては刊行日まで遅れてしまい迷惑をかけている単行本が三冊。単行本用のインタビュー整理が残りあと二本。「考える人」の原稿は長いもの短めのものを含めてあと五本残っていて……(ああ、どうか、〆きりをきちんと守ってくださった執筆者の方がこのメルマガを読んでいませんように)。

 すべては自分で蒔いた種ばかり。だからこそ一層気分が追い詰められていた昨日の午後、「このままでは駄目だッ!」と突然気分は反転し、自分に活を入れることにしたのです。「風邪はもう峠を越えた。気持ちで負けていたら治らない。私はやるぞッ!」。ハラを決め、見えないハチマキをして、対症療法を突き抜けた「精神主義」で風邪に対峙することにしました。

 ……すると気のせいか、だるかった体が少し軽くなり、同僚に冗談も言えるようになり、食欲も少し戻り始め、咳の回数も微減気味。遅れていた単行本用インタビュー整理原稿をふたつ夕方までに仕上げ、「考える人」の連載「考える手」の写真選びを夜までに終えることができました。なんだかムラムラとやる気まで出てきたような気さえ。編集長などと取り澄ましている段階ではもうありません。これから校了までの約二週間、あとはもう野蛮に乗り越えてゆくしかないのです……。

(今回は風邪の実況中継のようになってしまいました。申し訳ありません。次回では必ず、以前にお約束した「読者アンケート」についてのご報告をいたします)

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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