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岩城宏之「オーケストラの職人たち」(文春文庫)


 駅前で配っているティッシュペーパーは、まず受け取ることはありません。チラシや無料配布の雑誌はなおさらのこと、なんとなく素直に受け取る気持ちになれないのです。アルバイトをしている人のことを考えれば、そんな冷たいこと言わずに受け取れば? と思わないでもないのですが、何か説明しがたい抵抗があって伏し目がちに通りすぎます。ところが先日は、商店街の入り口で威勢のいいかけ声とともに、ラーメン屋さんの割引券付きチラシを配っているお兄さんに思わず引きつけられてしまいました。彼の語りが妙にめりはりがあって、時給いくらのアルバイトでやっているのではなさそうな感じ、つまりどうやらその店の関係者らしい。彼の熱意がひしひしと伝わってくるのと、実はラーメンも大好きなので、思わずチラシを受け取ってしまいました。

 コンサートホールに出かけたとき、チケットをもぎってもらう直前で手渡してくれる分厚いチラシの束。これはどうしても受け取ってしまいます。今後のコンサートにはどんなものが予定されているのか、開演前の曖昧な待ち時間を潰すためにもとりあえず確保しておきたくなるのです。その分厚いチラシの束は妙に柔らかいしんねりとしたビニール袋にまとめて入っています。このビニール袋の原料となっている合成ゴムは、コンドームの原料と同じものだということを本書で初めて知りました。そして、この袋が開発されたのは、ビニール袋の出すガサゴソとうるさい騒音を消すためで、だから手にとると不思議な感触があるのです。そもそものきっかけは、1996年の朝日新聞の夕刊に載った「チラシを入れている袋のガサガサがうるさい、なんとかならないか」という読者からの投書から始まったといいます。それを読んだ合成ゴムの開発担当者が、コンサートホールで音を出さないビニール袋を作ることになり、実現化したと岩城さんは書いています。そのことについての岩城さんの感想をここに引用して……いや、やめておきましょう。ぜひ本にあたってみてください(264ページ)。

 本書でスポットライトが当てられるのは、オーケストラの楽団員ではありません。裏方の人々です。楽団員のために働いているのにはどんな人がいて、どんな仕事があるのか。指揮者である岩城さん自らが、彼らに直接会って詳しく話を聞き、あるいは仕事に同行してまでその技術や苦労を目の当たりにし、音楽を創造する現場になくてはならない人々の存在に光を当てるのです。ステージマネージャー、ピアノやハープを輸送する専門の運送会社、楽団が長期で海外演奏旅行に出かける際に同行する医師、コピー全盛時代でもなお必要とされる「写譜屋」さん、調律師、チケットのもぎり専門の人……。彼らの仕事をつぶさに見学し話を聞くことによって、結果的にはオーケストラの経済的状況や楽団員の心理といったものまで見えてくるのです。

 本書は脱線も多く、勢いで書いているような「アドリブ感」も強いのですが、それこそが本書の魅力であり力になっていると思います。クラシック音楽と聞くと、それだけで敷居が高く、四角四面な感じを受ける読者も少なくないでしょう。しかし人間が集まってやることであれば、プロ野球であろうが、大学の教授会であろうが、PTAだろうが、同じ人間関係の力学が働くわけであり、その人間関係のなかで起こる悲喜劇や、微苦笑をさそうエピソードにはこと欠きません。音楽そのものは崇高なものであっても、それを演奏する人、陰で支える人は、生身の人間です。私たちとそれほど違うわけではないのです。それを緻密に書いていたら息苦しいものになってしまうでしょう。岩城さんのいわば小走りの姿勢で書かれているからこそ、面白くなるのだと思います。

 本書に登場するゴシップ的なものでいえば、ウィーンフィルの楽団員が詐欺で逮捕される話や、フジテレビと文化放送がその運命を左右したオーケストラの分裂騒ぎの話、「ウェスト・サイド・ストーリー」の抜粋を演奏会でやったらアメリカの出版社から三億円の賠償を求められた話……など下手に書けば陰惨でどろどろとしたものになりかねない話も登場します。ところが、なぜか岩城さんの文体で書かれると、グッと湿度の低いものになるのです。装幀や本文のイラストレーションを和田誠さんが担当しているのはまさに適役。カラッと書かれてあるからこそ気楽に読むことができます。それも同業者である指揮者が、ちょっと苦笑いしながら身内の話を書いている、というスタンスだからこそ、嫌味にならないのでしょう。当事者にとっては「そんなに簡単な話じゃない!」と怒り出す人もいるかもしれません。しかし「簡単な話」に整理すると、見えなかったものがはっきりと見えてくる場合もあります。

 取材の際には、指揮者である著者の立場が生きてくる場面があります。岩城さんは取材の電話を自らかけまくります。「なぜ、なんの目的でそんなことを知りたいのか」と最初は喧嘩腰だったり、木で鼻をくくったような対応だった取材対象も、電話をかけてきたのが岩城さんだとわかったとたん、手のひらを返したように低姿勢となり取材に応じる、という場面も出てきます。そう書いてしまうと、「権力の乱用」ととられてしまうかもしれませんが、岩城さんのやりとりにはそのような姿勢はなく、音楽を愛する者の純粋な興味が先に立っていますから、これもまた嫌味にはなっていません。

 アンコールについての考察も面白い。岩城説では、アンコールの起源はフルトヴェングラーがベルリンフィルの常任指揮者になってからのことだそうですが、日本のコンサートではいつしか「お決まりの儀式」的なものになっていはしまいか。このことについても「なるほど」と思わせるエピソード付きで考えさせてくれるのです。

 岩城さんはもともとは打楽器奏者。ヴァイオリニストやピアニストだったら、こういうお気楽な(失礼!)トーンで書いたかな、こんなふうに面白可笑しく書けるのは、岩城さんの打楽器奏者的な気質があってこそかもしれないな、というのが、面白く読み終わってからの私のもうひとつの感想でした。
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