Kangaeruhito HTML Mail Magazine 133
 

鈴木理策『Saskia』(リトル・モア)


 この写真集の評判は聞いていたのですが、たまたま書店では出会うことのないまま月日が過ぎてしまいました。奥付を見てみると、2000年10月13日となっています。鈴木氏が木村伊兵衞賞を受賞したのと同じ年。私がこの本に出会ったのはつい最近、東京・目白にある新しい小さな古本屋さんにふらりと立ち寄ったときでした。児童書が中心の品揃えのなかに、ポツンと一冊だけ平らになって、『Saskia』は置かれてありました。

 東欧のどこか小さな国の、小さな村の、太陽が降り注ぐ木立の蔭で執り行われた結婚式の一部始終を撮ったもの、と最初は思っていました。結婚式の主役のふたりも、出席者たちも、ハレの日に、清潔そうだけど都会的とは言いがたいファッションで身を包んでいる。人家があまり見えない山がちな風景。おそろしく澄んでいるのであろう空気。青空。ああ、こういうところで生まれて、育って、外国など一度もいかず、学校を卒業したらすぐに働き始めて、家族を養い、子どもをつくって、年をとっていく――そういう人生があるんだなあ、それはそれで深いなあ、と勝手に感慨にふけっていたのです。

 ところが、です。私のなかに小さなクエスチョンマークが点滅し始めました。写真のなかにちらりと写っている自動車。冒頭に出て来る薄暗い巨木の並木道。そして登場人物たちがノートに書きつけている文字。バンジョーを演奏する姿。その気になってよく見直してみると、それはアメリカの自動車であり、巨木はレッドウッド、文字は英語ではないか、東欧でバンジョー? と気づきました。あれれ? ここはひょっとするとアメリカ? 

 写真集の最後に、この結婚式の招待状らしき印刷物が写っています。最近、老眼が始まったのでほとんど読めないほど小さな文字に目を凝らして見てみると、カリフォルニア、とある。やっぱりそうでしたか。おそらくここは、カリフォルニア州ソノマ郡なのではないか。そう思って見直してみると、私はまだ一度も旅をしたことがない場所、しかし昔担当した翻訳書、トマス・ピンチョンの長篇小説『ヴァインランド』の舞台の一部に違いない、と思えてきたのです(『ヴァインランド』についてはあまりに色々な思い出があり過ぎるのと、この小説についてはとても簡単には触れることができないので、ここはこのまま通りすぎることにします。いずれこの欄で触れさせていただくことがあると思います)。

 さて、そう気づいた上でもう一度この写真集を見直してみると、ニューヨークやボストンといった東海岸とはまったく文化の違う、どこかゆるんでいて、怪しいところのある西海岸の光と影が、ちゃんと写っている気がしてきます。

 ところが、そのように腑に落ちた後に、また思い直しました。ここがカリフォルニアだろうが、東欧だろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか、と。ここに写っている新婦のサスキアと新郎のロブ。彼らの結婚式の親密な光景を、そのまま参加した人間の目で見ているだけでいいではないか。ウェディングドレスを着て土の道を歩く感触とか、開いた窓から入ってくる森の空気とか、友人のスピーチの声とか、シャボン玉の虹色とか、キスの感触とか、夕暮れ時にぐっと下がる気温とか、五感のすべてが開いていくような写真は、言葉では説明できない感覚を溢れるように、そして密かに、伝えてくるのです。

 この写真集には説明やキャプションはありません。鈴木理策氏が説明を排して写真だけを並べたことに、私は鈴木理策氏の写真という表現手段への敬意と確信と愛情を見るような気がしました。文字はいらない。新婦の名前「saskia」さえあれば、他はいらない。

 遠く離れてしまえば、たちまち林の陰になって見えなくなってしまうような小さな結婚式は、この写真集によって永遠の一日となったのです。それは、サスキアにとって、この晴れた日が永遠の一日になったのと同じように。
All right reserved (C) Copyright 2005 Shinchosha Co.