Kangaeruhito HTML Mail Magazine 140
 気がふさぐとき

 なんだか気がふさぐ、という日があります。それはたいてい、ひとつの要素だけでそうなるのではありません。仕事でひとつ、プライベートでひとつかふたつ、天候次第でさらに追加ポイントが積み重なって、総量があるレベルを超えると、「かたん」と気をふさぐフタが音を立てて降りてしまうのです。そうなるとひどい時には一週間ぐらい、軽くすめば半日ぐらい、うつうつとした気持ちのなかで過ごすことになります。目のあたりからぼわんと力が抜けて、表情筋のハリもなくなって、歩幅が小さく背中も丸くなり、うつむき加減の姿勢になってしまいます。アイディアも出なくなり、同僚の冗談にあまり反応できなくなり、集中力もぐんと落ちてしまいます。

 私の場合、 天候に左右される部分もかなり大きいようです。梅雨時から夏にかけてが特に苦手です。いちばんこたえるのは湿度。皮膚呼吸がとたんに苦しくなって、ほんとうに何かに「ふさがれている」ような気分になります。湿度さえ低ければ夏の暑さには耐えられるのです。たとえば快晴のアリゾナの沙漠を旅したときには、気温が42度ぐらいありましたが、湿度はおそらく20%もなかったので、私にとっては「さわやか」といってもいい気候でした。東京の夏はただでさえ亜熱帯気候的なのに、最近のヒートアイランド現象によって、さらに不快指数は上昇を続けています。夏の間は「気候部門」で積算ポイントが底上げされてしまうので、秋冬ならしのげるところが、夏の間はあっという間に危険水域に近づいてしまうのです。

 気圧も気分を変えるようです。私は自分の鬱の波と気圧の高低の関係を探ってみたことはないのですが、江藤淳さんが亡くなった当日、雷雨があり気圧の変化が激しかったと聞きます。数学者の藤原正彦さんによればイギリスの天才数学者アラン・チューリングの自殺があった日も、荒れた天気で気圧がぐっと下がった日だったそうです。気圧が下がってくるととたんに頭痛に悩まされると書いていたのは五木寛之さんだったでしょうか。いずれにしても人間も動物のはしくれ、天候に左右されるのも当然のことでしょう。

 そういうときにはどうするか。私の場合はまず眠ることです。やらなければいけないことも全部放り出してベッドに倒れこむ。そこでさらにまんじりともせず鬱々としてしまうと逆効果なのですが、私は自分でも呆れるほど寝付きがいいのと、だいたいが慢性の睡眠不足状態なので、十分もしないうちに眠りに落ちてしまいます。とくに気がふさぐことの原因のなかに、何かに対する怒りのようなものが含有されている場合には、さらに寝付きは良くなります。カッカと頭に血がのぼると頭が冴えてくるのが普通なのかもしれませんが、私の場合はてきめんに眠くなるのです。なぜだかわかりませんが、昔からそうでした。

 私にとっての鬱対策でもうひとつ効果があがるのは、やはり自然の豊かな場所に身をおくことでしょうか。高度が千メートル近くある信州あたりの豊かな森を背景にした里山に出かけていき、特に何をするでもなく、散歩したり、昼寝したりして過ごします。そうすれば、だんだんと気分が戻ってくる場合が多いのです。海の場合も人ごみでさえなければ、砂浜に横たわって潮騒を聞いているうちに、鬱の粉のようなものが洗い流されていく気分がします。自然のなかにいても退屈するだけ、やっぱり都会にいなければ憂さ晴らしはできないよ、という人もいるようですが、私はいくらでもグースカ寝ていられるように、都会派にとっては「何もない」と見える自然のほうが断然いろいろあって憂さ晴らしができますし、退屈することはありません。

 音楽と読書は微妙です。鬱々の状態が重症だと、文字を追うのが難儀になってきますし、音楽が必ずしも「癒し」になるとは限りません。音楽には作曲家の精神状態が音や旋律として昇華されている部分がありますが、反対に、音や旋律を通して遡って聞こえてくる音楽家の精神が、こちらの受け入れ態勢が良くないと単に「うるさく」感じられる場合も少なくないのです。だいいち音楽を聴く態勢になるのにはスイッチを入れたりCDを取り出したりと動作が必要です。重症の場合はそもそもそこまで動く気分になりません。

 そんなわけで今日は久しぶりの鬱状態。昨晩は会食があり、帰宅後はおそらくは神経性の下痢で何度もトイレを行ったり来たりしたので身体もぐったり。実はこの原稿は家で書いています。これを昼までにパーソナル事業部の担当者にメールで送った後は、ベッドに倒れ込んで昼寝する予定です。そして来週は後半から夏休みに入るので、久しぶりに信州にでかけようかと思っています。じたばたはせず、しばらくのんびりして、気分をふさぐフタが開くのを待つことにしましょう。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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