Kangaeruhito HTML Mail Magazine 141
 

坪内祐三「『別れる理由』が気になって」(講談社)


 冒頭からいきなり引き込まれてしまいました。引用してみます。
「小島信夫の『別れる理由』は気になる小説である。私はずっとその小説のことが気になりつづけていた。
 正直に言おう。私は小島信夫のさほど熱心な読者ではなかった。大学時代に新潮文庫の短篇集『アメリカン・スクール』を読んだ。同じく大学時代に『抱擁家族』を読んだ。しかし私がこの中篇小説に目を通したのは、あとでまた改めて述べることになると思うが、江藤淳の評論『成熟と喪失』(河出書房新社一九六七年)に導かれる形で、である。つまり小島信夫に対する私の内在的な興味によってではなかった」

 こう書いている坪内さんと私は同世代です。私たちが大学在学中の一九七九年に、村上春樹がデビューしています。その頃はまだ、吉行淳之介も埴谷雄高も江藤淳も安部公房も小林秀雄も現役でした。文学部の学生であれば(少なくとも私の周辺では)新潮文庫や講談社文庫に入っているような現代日本文学の名作は読んでいて当たり前、という雰囲気がまだ残っていました。私も講談社文庫に入っていた江藤淳の『成熟と喪失』を読んでから『抱擁家族』を講談社文庫で、安岡章太郎の『海辺の光景』を新潮文庫で読んだものでした。

 新潮文庫では共通のデザインでクリーム色のカバーになっていたのが、庄野潤三『プールサイド小景・静物』と小島信夫『アメリカン・スクール』でした。私の本棚には二冊は並べて置かれてありました。そして『成熟と喪失』を読んだ後、庄野潤三の場合は『夕べの雲』へ、小島信夫の場合は『抱擁家族』へと読み進んだのですが、私も正直に言えば、それぞれの作家については、さらにそれに続く以降の作品へとは読み進まなかったのです。とくに小島信夫の場合は、当時「群像」で「別れる理由」を連載していて、字面だけで誌面を追って行くと、柄谷行人だの藤枝静男だの実在の人間がそのまま登場しており、そこには「物語」の気配はまったく失われていました。誤解を恐れず言うなら、「小島信夫はいったいどうしちゃったんだろう」という感想を抱くばかりで、ちゃんと読んでみようとはしませんでした。

 本書は、タイトルどおり、それまで『別れる理由』は読まずにきたものの、この四千枚にも及ぶ長篇小説が気になりつづけてきたので、きちんと読んでみることにした、そしてこんなことを読み解くことができた、という内容の本なのです。本書も『別れる理由』と同じく「群像」に連載されました。連載という事情もあるでしょうが、現在進行形で書き進められているのも本書の大きな特徴です。『別れる理由』をゼロから読み進めながら、あることを発見してゆくドキュメント性のようなものが溢れているのです。読み進める際に味わうことのできるスリリングな手触りは、連載というスタイルが与えてくれたのかもしれません。

 私は本書を読み、何度となく文字どおり目からウロコが落ちました。本書によって『別れる理由』という作品の成り立ちと意味合いがくっきりとあぶりだされてくるのです。あれほどとらえどころのない「ぬえ」のような作品だった『別れる理由』が、はっきりと顔を見せてくれたように感じました。そしてそのあぶり出し方は、おそらく坪内祐三氏でなければできなかったであろう意識と方法によってなされています。

 坪内さんは「時制」にこだわる批評家です。ある書き手によって書かれたこと、語られたことが、いつの時点のものなのかをまず明らかにし整理した上で、書かれたこと、語られたことについて考えることにしているように見えます。いつ何をどのように言っていたか、の痕跡は必ず残るものです。時間の流れは一方通行ですから、痕跡の重なってゆく順番が狂うことはありません。注意深く調べれば、重なり具合のなかに小説家の精神や心に触れる部分を見い出すこともあるでしょう。年表的な位置付けを抜きにして分析を加えても、見えてこない部分、見失う部分がある──坪内さんの文章は、ディテールの細道に紛れ込んだように見えて、実は鳥瞰的なとらえ方をしようとすることが少なくないのです。

『別れる理由』がいつどのように雑誌連載されていたか、そして一九六八年から一九八一年まで長期にわたって連載されていた期間、小島信夫が対談や座談会でどんな発言をしていたか、も坪内氏はきちんと検証します。作品はテキストのなかにしか存在しない、とする立場からすれば邪道であり重箱の隅をつつく作業でしかないものですが、しかし『別れる理由』においては、この重箱の隅をつつくことで驚くような「事実」があぶり出されてきます。本書の前半部分で、私は何度か声を上げそうになりました。

 もうひとつ、やはり坪内氏ならではの部分。それは、『別れる理由』の読み解きにシェイクスピアという補助線を導入しているところです。批評家でありシェイクスピアの翻訳者でもあった福田恆存を尊敬し、一時は「鞄持ち」までしていたという坪内氏でなければ、読み解くことのできなかったシェイクスピアと『別れる理由』のつながりは、本書の後半の最大の読みどころです。

 それにしても、なぜ今小島信夫なのか、という思いが残ります。小説家の保坂和志氏は、昔から小島信夫の小説の素晴らしさについて何度となく言及していましたが、最新刊の『小説の自由』でも小島信夫の小説の魅力について触れています。『別れる理由』の連載の後半では、著者自ら、この長篇小説の読者は主人公と編集長の二人しかいないのではないか、とやや自嘲的に書いているほど「誰からもかえりみられなかった」小説が、今どうして浮上してきたのでしょうか。

 小島信夫を再発見する「現在」とはなんだろう、ということもまた、考えるに値することなのかもしれません。
All right reserved (C) Copyright 2005 Shinchosha Co.