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ヘンリー・ジェイムズ「デイジー・ミラー」(新潮文庫)


 スペースシャトル「ディスカバリー」号が無事帰還できたのは何よりのニュースでした。今回は、打ち上げの瞬間をライブで見ました。発射台からスペースシャトルが打ち上げられて、上昇を続けながらタンクを切り離すまで、「どうか無事で軌道に乗りますように」と祈るような気持ちで見ていました。それにしても今回の打ち上げ映像の鮮明さには驚かされました。テレビカメラのテクノロジーの進化にプラスしてカメラマンの腕も第一級のものだったのでしょうが(あるいはコンピュータ制御?)、打ち上げてから数分が経過し、以前ならとうに小さくぼやけた映像になっているはずの段階になっても、スペースシャトルの機体は鮮明にとらえられていました。その分だけ、さらにハラハラする気持ちに拍車がかかったような気がしますが……。

 点火したエンジンが炎と煙を轟然と吐き出しながらスペースシャトルを垂直方向に打ち上げるエネルギーに、訓練を積んだとはいえ、大きな事故の前では私たちと同じく無力でしかない乗組員がその生命を託している──そう考え始めると、映像を見ている私にもとてつもないGがのしかかってきます。スペースシャトルは過去に大きな事故を二度経験しました。1986年、打ち上げ直後に爆発した「チャレンジャー」号、そして前回の2003年、地球に帰還する直前に機体がバラバラになった「コロンビア」号。たった七年の間に、大きな事故が二度起こったということは、航空機事故の可能性に比べれば、その危険性は「天文学的」に高いものだと言わざるを得ません。

 これだけ大きな危険と隣り合わせのプロジェクトは、とうてい一民間企業が運営できるものではありません。国家的な事業であるからこそ推し進められる「野蛮な試み」といえるでしょう。しかし国家的な事業であっても、国によってはブレーキのかかり方には偏差があるはずです。もし日本の宇宙航空研究開発機構でこれほどの「犠牲者」を出す事故が七年間で二度起こったとしたらどうでしょう。たった二年余りで、ふたたびスペースシャトルを打ち上げることは、まずあり得ないのではないかと思います。

 宇宙計画とアメリカという「国柄」は切っても切り離せない関係にあると思います。普通であればそこまでは飛躍はしない大胆な発想を、具体的に実行に移してしまう傾向がアメリカという国にはあります。新兵器である原爆を民間人の住む都市に投下したことについても、この傾向とは無縁ではないでしょう。そもそも国の成り立ちからして、「行ってみる。やってみる」積み重ねが国力となっていった、実験的、人工的な国家だったのではないでしょうか。

 以前、NHKで放映された「驚異の小宇宙 人体」シリーズで、アメリカ人には「新奇探索傾向」を左右する遺伝子を持っている割合が高い、という仮説が紹介されていました。「新奇探索傾向」とは、今まで行ったことのない場所に行ってみる、やったことのないことをやってみる、という行動について躊躇せず、積極的に取り組む傾向を指します。反対にそのような行動を躊躇する傾向を「不安傾向」と言うそうです。確かに「不安傾向」が強い人間の集団であったら、西部開拓などとてもできないでしょう。まあ、この仮説については異論もあるようで、鵜呑みにはできませんが、アメリカの歴史にもし必然があったとしたら、このような遺伝子が寄与していたと想像するのは面白いところです。

 本書の表題「デイジー・ミラー」は、まさにこの「新奇探索傾向」を持つ、年頃のアメリカ女性の名前からとられています。デイジー・ミラーが母国を離れ、ヨーロッパを旅しながら、どんな行動をとり、ヨーロッパ的なるものがいかに眉をひそめたか。物語の構造と話運びはシンプルです。著者ヘンリー・ジェイムズは、1843年にニューヨークに生まれましたが、父親の教育方針で何度もヨーロッパを訪れた原体験も手伝って、処女長篇を発表する1876年にはロンドンに移住し、亡くなる前年の1915年にはついに国籍もイギリスに移します。母国アメリカにはアンビバレントな感情を持っていたに違いない独特な作家です。アメリカ人を自分のこととして最もよく知りながら、同時に大きな違和感を覚えるという経験が、作家として書くものに反映されないわけがありません。彼女に恋心を抱く青年は、ヘンリー・ジェイムズの分身だと考えていいでしょう。

 本書のカバー裏に記されている内容紹介によれば、「何事にも開放的なアメリカ人気質をさらけ出して振舞い、ヨーロッパの人々の顰蹙を買う娘デイジーと、彼女の魅力にひかれながらも、その行動を理解しきれない青年ウィンターボーン。二人の淡い恋を通して、旧大陸と新大陸の文化の相容れぬ側面を鋭く描き出している。20世紀“心理主義小説”の先駆者となったアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズの初期の傑作である」。

 奔放なアメリカ女性と礼儀や作法を重んじるヨーロッパとの軋轢。図式的でステロタイプな設定だと思えなくもないのですが、女性主人公デイジー・ミラーのわけのわからなさが怪しい魅力となり、まわりにさざ波を立ててゆく様子には、ヨーロッパ社会の息苦しさ、澱みのようなものもあぶり出されていて、どちらが正しいとは言えなくなってくる両義性をこの小説は持っています。ヨーロッパ滞在の長いアメリカ人の青年ウィンターボーンはデイジー・ミラーを「彼女は無邪気と無作法とが一つ身体に入り交った異常な娘なのだ」と分析しつつも、しかし彼女の独特の魅力の虜になってしまう。そこがスイスであろうがローマであろうが、自分の人生のスタイルで通してしまうデイジー・ミラーに、ウィンターボーンは苦言も呈します。しかしデイジー・ミラーは「男の方があたしに命令なさったり、あたしのすることに一々干渉なさるの、あたし、許したことないんですのよ」と言い、ウィンターボーンは「それは間違っていると思いますよ。時には男の言うことを聞くものですよ──立派な男の言うことはね」と反論します。まるで「現代のアメリカ」と「古いヨーロッパ」との対話のような台詞です。

 デイジー・ミラーが最後にどうなるのかは、ここでは書かないことにしておきましょう。冒頭でスペースシャトルについて触れたのは、この結末から連想したのですが……。久しぶりに本書を再読して、もうひとつ連想したのは、トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』でした。いつも「旅行中」である奔放な女性主人公、ホリー・ゴライトリーもまた、デイジー・ミラーのように「新奇探索傾向」の遺伝子を持つタイプなのだ、ということでした。文学にも国柄が反映されているのだという当たり前のことを、今回はあらためて感じました。「新奇探索傾向」を糸口に、アメリカ文学を読み直すのもまた一興かもしれません。
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