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安岡章太郎『夕陽の河岸』(新潮社)


 最初の一篇、「伯父の墓地」(川端康成賞受賞作)を読み終えたとき、後に続く他の短篇をすぐに読み始めるのが惜しくなりました。いったんは本を閉じて、物語の余韻のなかでぼんやりしていたい。そう思わせる本にはめったにめぐり合えないものです。涙が出るほど感動した、というのではありません。もっと静かな何かが、ふっと目の前を横切って、向こう側に去ってゆく。その瞬間に風がおこり、風圧を感じる。何かの匂いが残る。人生の真実の断片に触れたという手応え、と言えばいいでしょうか。だから感動ではなく「感触」なのです。

 著者の語りかけてくる言葉には、著者の特別な記憶を個人的に打ち明けるような親密な響きがあります。ただそれは、秘密の告白というのではなく、かといって読者への過剰なサービスでもなく、あえて言えば誰に向けたものでもない、淡々としたモノローグの響きです。だからこそ読み手は思わず耳をそばだて、ぐっと身を乗り出し、引き込まれるのです。

 これは小説なのだろうか。そう思わないでもありません。一人称の「私」は明らかに著者その人です。そして実際に経験したこと、見聞きしたことを書いている。これは随筆ではないのか。著者の安岡章太郎氏自身も、「小説なのか随筆なのか」の事情について、谷崎潤一郎の『饒舌録』の文章を引きながら「あとがき」を書いています。谷崎は「うそのことでないと面白くない」、「事実をそのまま材料にしたものや、さうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない」と書いている。そして『饒舌録』を学生時代に読んだ安岡章太郎氏は「大いに共鳴した」とも書いているのですが、しかし、「文学を、いちいち小説とか随筆とかに分類することにどれほどの意義があるか、さういふ疑念が私の中で年毎に強くなつてゐることも、またたしかである」。そして、「谷崎氏の書いたものでも虚構の面白さを縦横に発揮したといへるのは『武州公秘話』その他、それ程多くはないのではないか。もつとも私は、つい二、三十年前まで谷崎氏の例へば『吉野葛』のやうな小説を、かなり私小説的な物語として読んでゐたことを告白しなくてはならない」とも書いています。

 本書に収録されている短編のひとつ「犬」は、安岡章太郎氏がまだ学生だった頃の、ある真夜中の出来事が描かれています。「昭和十八年十二月中旬の某日、時刻は午前二時前後、私は宮益坂を渋谷に向つて、甚だおもしろくない気分に駆られながら下りて行つた」と始まる冒頭。戦時下の真夜中の東京とはこういう場所だったのか、という新鮮な驚きがあります。昭和十八年の十二月といえば、明治神宮外苑の国立競技場で「学徒出陣」の壮行会が行われた約二ヶ月後。「私」が歩いている渋谷の街は、このように表現されています。

「私の前後左右には乗物はおろか、人の気配のするものは何一つない。両側の家並みは、灯火管制のせゐもあつてシーンとした闇の中に黒い獣が折り重つて眠つてゐるやうだ。坂を下り切つた窪地の一帯は渋谷の盛り場だが、いまは町全体が谷底に沈んだやうに暗い。ついこの間まで連日、駅のまはりで太鼓を叩くやら、校歌や軍歌や応援歌をうたふやら、出陣学徒の見送りでごつた返して騒いでゐたのが嘘みたいだ」。

「私」は青山の友人宅で、ある不愉快な出来事を経験した後、世田谷代田の家に向かって歩いて帰る途中、不意に一頭の犬と出会います。「ふつと背後になにか、けだものの気配を感じ、振り返ると夜目にも真つ黒い大きなシェパード犬が一頭、鼻先きを擦りつけさうなほど私の直ぐ後ろに迫つてくるではないか。その瞬間、私は恐怖心でいつぱいになり、他の事は何も考へられなくなつた」。この犬はずっとこのまま「私」のあとをついて来ます。「私」の恐怖がピークに達するのは、この犬と「私」が野犬の群れに鉢合わせる場面。最後はいったいどうなるのか──。短編「犬」を読み終えた読者のもとに残されるのは、あの犬はいったい何者だったのか、という謎です。しかしそれはどこかに答えが見つかる謎ではない。人生そのものの謎に直結しているかのような、生々しくもあり、夢のようでもある、犬。

 安岡章太郎氏が先に引用した谷崎潤一郎の言う「うそのこと」とは何でしょうか? 実際には起こらなかったことを書けば、それは「うそ」になります。しかし実際に起こったことを「どのようにして」書くかによって、描かれ方にはあらゆる可能性が広がります。どこからが「うそ」の領域で、どこまでが「事実」の領域なのか。同じ出来事を同じ場所で目撃した複数の人間がその出来事について報告するとき、まったく同じ言葉にはなることはありません。つまり、誰がどれほど厳密であろうとしたとしても、伝える言葉には目撃した人の見方が入ってしまいます。「うそ」の範囲を確定することは、実はなかなか難しい。

 暗いモノクローム映画のように鮮烈な印象を残す「私」と犬とのやりとりを、実際にこのとおりだったのかどうかと検証するのはほとんど意味がない気がします。しかし、戦時下に生きた安岡章太郎氏の、その日々に確かに抱いたであろう心の「真実」がここにはある。確かなことはそれだけです。理屈ではなく、感触として書き表していることによって、やはり「犬」はすぐれて小説的である、と言えるのではないでしょうか。随筆とは違う、小説としか名付けようのない何かが、この「犬」には宿っています。

 表題作となっている「夕陽の河岸」も、幼馴染みのG君が陸軍幼年学校に入り、昭和十三年に亡くなったことをめぐっての記憶が描かれています。G君の死因が、遙か数十年の時を経て、当時聞かされていたこととはまったく違っていたことを発見する「私」は、G君の死の「真実」に不意打ちされます。引用されるG君の日記の何とも言えない切なさ、そして現在の「私」が夕闇の河岸で出会う「バケツのなかに捕らえられた鯉」の恐ろしさ。小説を動かす重要な何ものかとして生き物を登場させる安岡章太郎氏の手つきは、「サアカスの馬」を例に引くまでもなく、見事というほかはありません。

 文庫化されたばかりの安岡章太郎氏の『僕の昭和史』(新潮文庫)は、気になりながらこれまで読まずにきてしまいました。どうしてこれまで読まずにきたかを考えると、「昭和史」という言葉がどこか重苦しく、何となく気が進まなかった、ということだったのではないか、と思います。しかし『夕陽の河岸』もまた、まぎれもない「僕の昭和史」なのです。年表からはほとんど見えてはこない、安岡章太郎という一個人が経験した、個人的な昭和史。たった数時間、あるいは数日の出来事を描くことだけで、歴史のなかで生きていた人間を鮮やかに取りだし息を吹き込む小説の力。

 というわけで、今私は『夕陽の河岸』に引き続き、『僕の昭和史』を読み始めたところです。
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