Kangaeruhito HTML Mail Magazine 146
 記者会見

 今週月曜日の夕刻、小林秀雄賞の選考会があり、茂木健一郎さんの『脳と仮想』が受賞作に選ばれました。以前にもお伝えしたように、小林秀雄賞は事前に候補作を公表していません。もちろんご本人にも候補になっていることは伝わっていませんから、受賞が決まったところで突然、何かが空から降ってきたように受賞の知らせが届くのです。

 新潮文芸振興会から連絡がいったとき、茂木さんは外出先だったようです。担当者が茂木さんの携帯電話の番号を知っていなければ、すぐには連絡がつかないところでした。選考会が開かれたホテルオークラの記者会見場には6時頃から多数の記者の方々が詰めていました。茂木さんが駆けつけてくださったのは8時過ぎ。ラフなTシャツ姿の茂木さんは、まだ受賞の知らせの驚きのなかにいて、どこか半信半疑のような表情をされていました。カメラのフラッシュが焚かれるなか、受賞したのは「『脳と仮想』……ですよね?」と茂木さんが司会者に確認をする場面があり、場内は一気になごやかな笑い声につつまれました。

 受賞作『脳と仮想』のなかでは小林秀雄についても論じられています。記者会見でも、小林秀雄に本格的に引き込まれるようになったのは、その講演テープ『信ずることと考えること』を聞いたのがきっかけだったと話されていました。落語家の志ん生のような語り口と、語られる言葉があまりにも特別なものだった、というのです。それまでも小林秀雄の本には触れてきたのに、テープで聞く小林秀雄の肉声に、茂木さんのなかの何かが、初めて強く揺さぶられ、反応したのです。

 茂木さんの記者会見は異例なほど長いものになりました。記者が何かを質問すると、その言葉の意味するものを真剣に考え、少し間をおいて話し始めると、何か自問自答するような、言葉を探しながらあちこちの壁だの棚だのに頭をぶつけてしまうような、話し方としてはどこか不器用だけれど、本人からしか出てこない借り物ではない言葉が、真情をともないながら溢れ出してくる──そんな魅力的な受け答えなのです。

 茂木さんは話しながら自分の発した言葉にさらに自分で反応するところがあって、蹴り出されたラグビーボールのように話題は思わぬ方向へと転じる場面もありました。とにかく聞いていて飽きない、いや、だんだん身を乗り出してしまうほど面白いのです。手の内ならぬ「頭の内」にわき上がってくる言葉を惜しげもなく公開し、差し出してくれる。茂木さんの語り口には、巧まざる魅力が溢れていました。

 茂木さんは東京大学理学部で物理を学びながら、途中で法学部に転部しています。経歴を見てその部分に気がついたひとりの記者が、どうして物理から法学へと転じたのかという質問を出しました。そのとき、茂木さんは一瞬言い澱むような表情になったものの、意を決したように、当時の恋愛体験を語り始めました。かいつまんで言えば──それまで俗世間のことを何も知らないまま「アインシュタイン」的な世界観を信じていた純粋培養の科学少年が、恋愛という事件に遭遇したとき、その相手は茂木さんとは百八十度違う価値観、すなわち「法学部」的な価値観を信じる女性だった。その世界がどういうものなのかを理解できなかった茂木さんは、その世界を知り、身につけたいと思い、法学部に移って勉強することにした──そんな事情があったようなのです。

 どんな人間でも──偉かろうが、インテリだろうが、何者だろうが、いったん恋愛という経験のなかに放り込まれてしまえば、誰もが同じような状態に陥ってしまう。嫉妬心が湧き上がり、焦燥感にさいなまれ、コントロールできない熱情に掻き回される。茂木さんはそのことを身をもって体験し、学んだようです。茂木さんはこのときの体験を、はしかのような一過性のものとしてはとらえなかったのでしょう。いまも生々しく甦ってくるそのときの感情が、言葉の端々から伝わってくるようでした。

 語り口が練れていて聞く耳に心地よい、というものではないのに、茂木さんの話は実に面白い。「訳知り」には決してならず、目の前の事象に目を凝らし、驚き、激しく反応する心。その自分の姿を無意識のうちにさらけ出してしまう無防備さ。そして無防備だからこそ発見できる新しい世界観。そういうたぐいの面白さなのです。「世の中はこんなものさ」とはどうしても高をくくれない、無垢な魂のようなものが茂木さんのなかにはたくましく生きている。記者会見の茂木さんを見ながら、私の奥底で何かが深く揺さぶられるのを抑えることができませんでした。

 茂木さんが聞き入った小林秀雄の講演『信ずることと考えること』のなかに、茂木さんの巧まざる魅力を照らし出す言葉があります。小林秀雄はおそらく、茂木さんの人となりを見れば、黙って頷きながら微笑んだに違いない。そう感じます。その言葉を、最後に引用しておきます。

「私は物知りインテリを嫌い抜いています。どうして、“人生の不可思議”に謙虚に対処しないのだろう」(小林秀雄『信ずることと考えること』より)

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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