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保坂和志「季節の記憶」(中公文庫)


 ドストエフスキーや大江健三郎さんの小説を濫読していた高校生の頃、秋の晴れた日に、駅前で開かれていた「青空古本市」をのぞき、装幀を目にしたらデザインがいっぺんで気に入ってしまい、衝動買いした本がありました。それは坂上弘さんの長篇小説『優しい人々』でした。青が鮮やかな函入りで、表紙は空押し、清潔でモダンなデザインでした。装幀をしたのはデザイナーの田中一光さん。

 ずいぶん昔のことなので、だいたいの記憶でしかないのですが、とにかく『優しい人々』を読み始めて驚いたのは、「小説ってこんなにも違うものなのか」ということでした。文章ばかりではなく、書かれている物語じたいも、ドストエフスキーや大江健三郎さんの小説とはかけ離れた感じのするものでした。たとえばドストエフスキーの小説に描かれている世界は、自分の日常の隣にあるものではありません。読んでいる間はリアルな何かを感じながらぐいぐいと読み進めているのですが、読み終えてみれば、小説のなかでしか起こりえない小説的な世界のなかに自分がいたのだと我に返る部分もあります。坂上さんの小説はそうではありませんでした。普通の社会人、家庭を持つ人間が登場する。主人公はその身内の人間関係のなかで、様々なことを考え、日々を送っている。小説に描かれている空間、空気といったものは、自分の隣にあってもおかしくないものでした。『優しい人々』を読み終えると、しばらく坂上さんの本ばかり探してきて読んでいたことを思い出します。

 保坂さんの小説は今まで読んだことがありませんでした。保坂さんの小説論である『小説の自由』を読んで(これがまた装幀が素晴らしい!)、そして東京の書店で行われた小島信夫さんとの公開対談を聞いて、俄然、保坂さんの小説を読んでみたくなり手にしたのが本書でした。その直前にたまたま読み返していたのがジョン・アーヴィングの長篇『サイダーハウス・ルール』。現代小説のなかに19世紀的なストーリーテリングを復権させて、喜怒哀楽、生と死の輪郭をくっきりと描きだしたアーヴィングの小説世界から、保坂さんの『季節の記憶』の世界へと移動したとき、私がふたたび思ったのは、「小説ってこんなにも違うものなのか」ということでした。『季節の記憶』には、同じジョン・アーヴィングの代表的長篇『ガープの世界』が出てきます(正確に言えば、この小説を原作にした映画のほうなのですが)。主人公の「僕」は映画の途中で居眠りをしてしまいますが、友人は映画に釘付けになりながら何度となく嗚咽をもらす、というシーンが描かれます。映画を見ているうちに「僕」が居眠りをしてしまうというくだりは、この小説を読み終えると、何やら象徴的なシーンだったなと思えなくもない。『季節の記憶』は、そう思わせるような感触が、全編に漂っている小説なのです。

 鎌倉に住む「僕」と五歳の息子「クイちゃん」の会話から始まる物語は、近所に住む「便利屋」の友人「松井さん」とその妹「美紗ちゃん」との交流を、とくに大きな事件が起こるわけでもない時間の流れのなかで描いています。他にも登場人物はいます。「僕」が会社員時代に同僚だった同性愛の男の友人「二階堂」。離婚して五歳の娘と引っ越してきた「ナッちゃん」(このナッちゃんという女性は、『季節の記憶』という小説を支える世界観とはどこか馴染まない雰囲気を漂わせていて、面白い味があります)。主な登場人物たちは、起承転結という物語の流れはとらず、しかし会話を交わすことによって小説的な何かをつくり出していくのです。つまりここで『季節の記憶』はこういうお話です、と「あらすじ」のようなものを書こうとしても、ほとんど意味がない──そういう小説なのです。

 それでは、『季節の記憶』という小説は何を描き出そうとしているのか。それは、小説という舞台の上で行われる「世界観」の呈示です。世界を読み解きたい、理解したい、という心や頭の働きが描かれている。「世界」とは、私たちが生きるということはどういうことなのか、という問題です。『季節の記憶』に描かれる会話には、世界を読み解こうとする哲学、生物学、言語学、社会学、政治学、物理学、などの学問がそれぞれの領域で掘り進めた「坑道」がさりげないかたちで次々と登場します。それぞれの学問が掘り進めた「坑道」はどこへと通じていくのか。登場人物たちは、日常レベルの感覚で、それぞれの学問の捉えた世界観を自分なりに咀嚼した「手描きの地図」のような言葉に置き換えて「会話」のかたちで読者に呈示するのです。

 つまり、世界の成り立ちについて、完全には納得していない自分というものを、実はかなりはっきりと認識しているのが、『季節の記憶』の登場人物たちだ、とも言えそうです。その不安のような好奇心のような何かを、会話によって投げかけて、受け取った側は言葉を変えて投げ返す、というやりとりの繰り返し。一見閉じた世界のようにも見えるこの小説の舞台は、実は「会話」という方法によって、世界に向かって開かれている。「質問したり答えたりするだけで」「意志が鍛えられる」という表現が出てくる箇所がありますが、『季節の記憶』は「僕」の一人称の小説ではあっても、モノローグではなく、ダイアローグなのです。そのように考えてくると、起承転結がはっきりと描かれる物語は、世界という土台が揺るぎないものとしてある、ということが無意識のうちの大前提となっているのかもしれない、と思えてきます。

 正社員かフリーターか、勝ち組か負け組か、というような二元論的世界観は、『季節の記憶』の世界ではまったく空しいものになります。「ナッちゃん」というちょっと違和感のある登場人物は、そちらの世界から紛れ込んできた人、とも言えるのかもしれません。「世界観の呈示」などと何やら堅苦しい言い方をしてしまいましたが、その呈示の仕方は立派な大講堂で行われる講演というものではなくて、向こうからラッパを吹きながらゆるゆると蛇行して近づいてくる豆腐屋のオジさんのような感じのもの、と言えばいいかもしれません。鎌倉という土地が舞台になっていることも、この小説の世界観を無理のない自然なものとして描き出すことに成功しています。たとえば鎌倉の地形を描いたこんなくだり。

「場所によっては上からも下からも石段でしか通じていなくて車もバイクも使えないようなところもあって、美紗ちゃんなんかは石段しか使えない場所を歩くたびに、ここではいつまでたっても本当に人間の労力しか使えないのかを真剣に悩んだりしているのだが、実際配達の人を見ると米なら肩に担いで石段を上がってくるし石油ならポリタンクを手に下げてやってきて、松井さんがこのあたりの家の壁の補修をしたときも石段の部分は材料を全部手に持って上がり、そのときは僕も美紗ちゃんも手伝って手で運ぶ他にどうしようもなかった。
 それでこのあたりは道が複雑に入り組み真っ直ぐな道もないし道が直角に曲がることもない。しかもほとんどの道は山の途中で行き止まりになり、平らな土地の道のように曲がり角は別でも奥でまたつながるというようなこともほとんどなくて、僕たちはそのつどそのつど行き止まりを引き返すのだが、もともと目的なんかないそういう散歩をしているんだからそれでかまわなくて、はじめのうちは『どこに行こうとしてるの?』と言っていた二階堂もだんだんとつまりこういうことなのかとわかってきて、そのうちに低くて比較的平らで道が交わっているあたりで、僕たちが“極楽寺のオバケ屋敷”と呼んでいる屋根からツタがざんばら髪のように垂れ下がった二階建ての空き家の前に着いて、このオバケ屋敷を見ると必ず『わあっ』と声をあげることに決めている息子が『わあっ』と声をあげた」(『季節の記憶』より)

 このくだりは、この小説を読み進める経験、あるいは書き進める経験をそのまま言い当てているような部分です。目的のない散歩のような小説。何時までにどこへ行かねばならない、そのためには何時発の新幹線に乗って──というような日常に生きている私たちの内側で、ふだんはきちんと閉められている蓋が「ぱこん」と音を立てて開いていき、すうすうと風が通っていく。私の読後感は、そのようなものでした。もうひとつ特筆すべきところは、長らく鎌倉に住んでいた著者ならではの、鎌倉の樹木についての描写です。季節のなかでそれらがどのように変化していくか、「目的のない散歩」を毎日の日課にしている人でなければ見えてこない風景が鮮やかに描かれて、この小説をいっそう鮮やかなものにしています。
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