Webマガジン「考える人」

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

やりなおし世界文学

2019年9月26日 やりなおし世界文学

(10)大地に生きるあらゆる人々の叙事――キャザー『マイ・アントニーア』

著者: 津村記久子 100%ORANGE

 人が生きている限りは、全員が人生のことを知っていると思う。三歳の子供でも百歳の老人でもそれは同じだ。それでも、この人は尋常じゃなく知ってるなあと感心することはある。書物から人が生きることを学ぶこともある。両者の基底にあるのは、経験の多彩さももちろんあるけれども、それ以上に実感であるような気がする。自分や他の人に訪れた局面でどれだけのことを考えたか、どれほどの物事を自分の心身に通したか。本書は間違いなく、尋常じゃなく知っている本だ。人が生きているということはこのようなものだという目配せは一切せず、ただ語り手のジムが語るアントニーアと、その周囲の人々のある瞬間と来し方を切り出して提示する。十九世紀のネブラスカ州の田舎や小さな町に生きる、強い人と弱い人、善人と悪人、そして移民とそうでない人間たちが行き交う様子は、間違いなく「この世」を体現している。ときどき圧倒されるような読書だった。
 語り手であるジム・バーデンは、両親を失い、十歳で祖父母に預けられることになってヴァージニアからネブラスカにやってくる。そのときに同じ汽車の違う車両に乗っていたのが、ボヘミアからやってきたシメルダ一家で、ジムと同い年ぐらいのアントニーアはそこの長女だった。シメルダ一家は、祖父母とジムの家からもっとも近いところに住む隣人になる。夏は太陽が焼け付き、冬は風が吹き荒れて鉄板のように灰色になるという、「人を突き動かすような極端な気候」とされるネブラスカの大地の描写がまず印象に残る。太陽の下、祖母の菜園でカボチャに寄りかかって座ったジムは、何か完全なものの一部になったようにさえ感じる。ウィラ・キャザーは、十歳の時の一八八三年から一八九六年までの十三年間をネブラスカ州で過ごしたそうだ。十三年という時間を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだと思うけれども、子供の頃に過ごした土地の力というのは、大人になってから感じるのとはまた違うものだということは知っているので、キャザーにとってネブラスカは重要な土地なのだと思う。ネブラスカを描写する本書の文章からは、著者の土地への信頼が放射されているようで、個人的なことながら、自分はこういう信頼を持てなかった、ということに悄然とする。
 シメルダ一家の父親であるシメルダ氏は、どうも土地を買うときに騙されたらしく、祖国では織物工で農業のことは知らない人であることが説明される。アメリカに移民してきたのは、母親がアントニーアの兄の長男アンブローシュを金持ちにしたいと望んだからだ。農業に疎く、バイオリンを弾くシメルダ氏は、どこまでもネブラスカでは場違いな人物として描かれる。そんなシメルダ氏が、アントニーアに言葉を教えてやってくださいとジムの祖母に懇願する様子は胸が詰まる。また、冬が近づいてほとんどの秋の虫が死に絶えた後、一匹だけ生き残った虫を拾ったアントニーアがそれを髪の中に隠してハンカチをかぶり、ジムと平原から帰るというエピソードがある。二人は、三羽の兎を銃で仕留めたシメルダ氏と合流する。足を引きずって、行くあてがないかのように歩くシメルダ氏をアントニーアは「お父ちゃんはいつも具合が悪い」とジムに言う。アントニーアは、父を慰めるように髪の中から虫を出し、虫はかすれた声で鳴き始め、シメルダ氏はそれに聞き入る。シメルダ氏とアントニーアという親子、そして思いやりを持ってそれを見守るジムという三者の関係を象徴する、本当に美しい場面だと思う。
 比較的早く退場するものの、娘アントニーアを思いやりその支えになるシメルダ氏の姿は、強く生きることも人生の選択に敗れて弱くさせられていることの価値も認める本書の主旨の根幹を成している。シメルダ氏の他にも、アントニーアとジムの近所に住む二人のロシア人であるパヴェルとピーター、ジムの祖父母の使用人であるジェイクとオットー、そして美しい移民の農民の娘であるリーナと噂になるオール・ベンソンという男や、成長したジムの話し相手になる鉄道の電信技手の男が女優や踊り子の写真欲しさにクーポンがついた煙草を死にそうになるまで吸っている、という味わい深い小さな挿話など、世間的には成功者とはされない人々の在りようの丁寧な描写が、本書の奥行きをより深いものにしている。特にロシア人のパヴェルとピーターに起こった、祖国の村の結婚の行列が狼の群に襲われるという残酷な出来事と、それが二人の人生をどう永久に変えてしまったか、という物語には、ほとんど神話的なほどの力強さがある。また、ジェイクとオットーという、おそらく金持ちになることは難しく、家庭を持つこともないであろう放浪の労働者である彼らのむき出しの人生や素朴な善意についての記述も感動的だ。ジムに対してフェアに接する印象のあるオーストリアからやってきたオットーが、クリスマスには母親に必ず手紙を書くのだが、母国語を思い出すことに難儀している様子には、他者の人生の一場面が忘れられないものとして映し出されている。美しく年端もいかない少女に夢中になっていることを謗られる元水夫のオール・ベンソンが、家畜の世話をしている自分をずっと見つめていたことについて、悪意は全くなく、「自分の不運を忘れたかっただけなの」と当の少女であるリーナによってのちに語られることも興味深い。大平原では見るものがあまりないから二人でいつまでも眺めていたという刺青だらけの彼の体についての「あの人、絵本みたいだった」というリーナの感慨には、美しいと言っていい感触がある。
 彼らをよそに、アントニーアやリーナといった移民の娘たち、特に他のきょうだいより先に生まれた女の子たちは、農場で町でさまざまな仕事をしながら、それぞれに強く成長していく。彼女らボヘミアや北欧からの移住者の娘たちは、弟や妹に「有利な条件」をつけさせるためや、父親の借金を返すために働き、そこから抜け出すとルーツを同じくする男たちと結婚して豊かになったという。人生と貧困を母親や祖母たちから学んだ彼女たちを「勇気がある」とする語り手ジムの目線には、苦労して生きていく女の子たちへの強い共感と愛情がある。子供の頃の貧困と不幸、野良仕事や町での労働の先で、家庭と農業に到達点を見出すアントニーアと、「あたしはね、長年母さんが住んでいる、あの芝土の家から母さんを連れだしてみせる。男たちにはそれができないの」と語り、服飾のキャリアを積んでゆくリーナの人生が、ほとんど軽重なく描かれることもバランスが取れていて、それぞれの人生の選択を選り好みしない著者の姿勢を窺い知れる。
 アントニーアは紆余曲折の末、クーザックという凡庸なボヘミア出身の子だくさんの男と結婚する。それでも、四十を過ぎてジムと再会した、たくさんの子供たちに囲まれたアントニーアには、人生に報われた喜びと成功の多寡を問わない輝きがある。英語がほとんど話せなかったというシメルダ氏が、それでも英語で呼びかけた「私のアントニーア」は、立派に成果を得るのだ。最後の登場人物と言ってもよい、ウィーンで毛皮職人をやっていた都会育ちのクーザックの、苦難に見舞われながらも農業を続けてネブラスカに根付いたことについての「どうして、こんな風に落ち着いてしまったのか、自分でも分かりませんね」というおおらかな言葉は、コントロールしきれない人生を渡ってゆくことを肯定しているように思える。
 この時代のアメリカの、おそらくは「普通」とされるであろう多くの人々の人生の断片に、何度も心を動かされる読書だった。すばらしい小説だと思う。

マイ・アントニーア

キャザー/  佐藤宏子 訳 

2017/3/15発売

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

津村記久子

2019/11/12発売

うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように。豪雨による帰宅困難者の心模様を描く表題作ほか、それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

9

20

(Fri)

今週のメルマガ

初公開! 天童荒太さんの創作の舞台裏(No.785)

  2018.9.20配信 HTMLメールを表示出来ない方は こちら 9月20日更新第2回 徴兵令に […]

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

連載一覧

対談・インタビュー一覧

100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき