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デモクラシーと芸術

2019年9月25日 デモクラシーと芸術

第9回 ヤナーチェクが追求した普遍性

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

ヤナーチェクが注目した「発話旋律」

 すでに触れたスメタナとドボルザークは、チェコ・ボヘミアを代表する国民的作曲家である。チェコは、大きく西のボヘミアと東(スロヴァキアにより近い)のモラヴィアに分かれる。ポーランド国境のスレスコ(シレジア)も含めると、チェコには三つの地方が存在することになる。20世紀以降のモラヴィア人が、どれほどモラヴィアへの帰属意識を持っているのかはわからない。彼らがボヘミア人に対して少数派であることは確かだ。
  チェコにおける宗教の問題を考えるとき、「宗教を持たない人たち」が多いということは重要な点だ。それはフス戦争(1419~1434)の影響が未だに残っているためだとする説がある。15世紀ボヘミアのヤン・フス(1364?~1415、カレル大学学長)は、イギリスの教会改革者ジョン・ウィクリフ(1320?~1384)の影響のもとで教会改革を敢行するが、コンスタンツの公会議(1414~1418)で異端と宣告され、焚刑に処せられる。これを機にフス戦争と呼ばれた大反乱がボヘミアで起こる。その後チェコは、ハンガリーやポーランドに支配されたのち、ハプスブルク家の属領となった。
 ドボルザークは、1881年6月の杮落しの2か月後に大火災に見舞われたプラハ国民劇場再開のガラ・オープニング(1883年11月)のために、『劇的序曲「フス教徒」』(Op.67)を作曲している。チェコ国民にとってヤン・フスがもつ意味を示す象徴的な例だ。筆者はこの曲の存在を最近知った。ドボルザークの『交響曲全集』(Rowicki指揮ロンドン・シンフォニー―Decca)のCDの一番最後に「うめ草」のように付け加えられていたので気が付かなかったのだ。甘美さ、暗さ、静謐さ、激しさの入り混じった心象風景を描いた音楽だ。
 チェコの歴史は、教会改革に対する弾圧と他国家による侵入と支配の歴史であった。近代に入ってからも、ヒトラーの侵略、戦後は冷戦下でのソ連の強烈な選挙干渉による共産主義化(1948年)と、その過酷な有為転変は文字通り悲劇の歴史としか言いようがない。共産主義下でのプロテスタント教会と信者の間の密告による不信感は、多くの人々を教会から離反させることになった。 
 チェコのもうひとつの地方、モラヴィアも重要な作曲家を生み出した。レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)だ。ヤナーチェクは民族の言語と音楽の関係に強い関心を持ち、発話の抑揚や音律の形状について徹底して探求した作曲家であった。チェコ語の音を、将来世代にいかに伝えるかという問題を強く意識し、民謡を収集するだけではなく、発話旋律(speech melody)を記録するという仕事に熱心に取り組んだ。発話から聞き取れるイントネーションやメロディー・ラインなどを集めるのだ。それはある種の民族誌的、言語学的な研究とも言い得る作業であった。ヤナーチェクは自分の愛する娘が死の床で発する言葉の抑揚をも書き留めたと言われる。発話が話者の心理と情念を示すと考えたのである。

レオシュ・ヤナーチェク

 ヤナーチェクは「歌は発話によって、発話の中に生きている。チェコ人の全精神は、その発話の中にあらわれる。かれらが話すすべての言葉は自然な生活の一部である。だからこそ人々の発話のメロディーは詳細にわたって研究されねばならないのだ」と述べている(New York Times, 13 July 1924 ― The Janacek Compendium から引用 )。
 スメタナやドボルザークが、ボヘミア民謡(風)のメロディーを断片的であれ、そのまま曲の中に取り入れたのに対して、ヤナーチェクは発話旋律をそのままの形で曲中に用いることはしなかった。彼が注目したのは発話のメロディーやパターンであって、歌のメロディーそのものではない。したがってヤナーチェクの作品には彼の故郷、モラヴィアの民謡がそのままの形であらわれることはない。ここにスメタナ、ドボルザークと、ヤナーチェクの作曲家としてのナショナリズムの性格の違いがある。ヤナ―チェクは、「人間の言語的多様性という宿命性」(B・アンダーソン)に注目しつつも、その宿命性を通して普遍性そのものに迫ろうとしたナショナリストであったと筆者は考える。
 2年ほど前、若いバイオリニスト石上真由子さんが、京都でヤナーチェクの『ヴァイオリン・ソナタ』を演奏したのを聴いて心を揺さぶられることがあった。石上さんのヤナーチェクのソナタが最近CD(Opus One 日本コロムビア)で発売されたのを知り、早速手に入れて何度も聴いた。それはチェコ・ナショナリズムという次元ではとらえられない、普遍性を持つ人間感情の炸裂とでも言おうか。

石上真由子「ヤナーチェク: ヴァイオリン・ソナタ」

 ヤナーチェクの作曲したオペラで生前大成功を収めたものは、チェコ語ではなく、ドイツ語で歌われたものであった。彼自身、チェコ語で歌われることを必ずしも望まず、ドイツ語や英語で上演されることに満足したと伝えられる。『イェヌーファ』以降のヤナーチェクの後期のオペラ(『カーチャ・カバノヴァー』『利口な牝狐』『死の家より』など)のドイツ語訳を担当したのが、ユダヤ系チェコ人のマックス・ブロート(1884~1968)であった。ブロートは、同じくユダヤ系チェコ人の作家フランツ・カフカ(1883~1924)の伝記(Franz Kafka, eine Biographie)で知られるが、ヤナーチェクの最初の伝記(原著はドイツ語、チェコ語訳もあるようだ)を書いている。
 ちなみに非ユダヤ系の「無神論者」とされるヤナーチェクは、グラゴール・ミサ(Glagolitic Mass)を作曲している。グラゴールというのは、古代スラブ語に用いられた文字だが、やがてキリル文字に圧倒されてほとんど使われなくなったらしい。幾多の改訂を経ながら、ミサ曲の作曲を強く勧めたモラヴィアの地方都市オロモウツの大司教、Leopold Precanに捧げられている。完全なスコアが刊行されたのは、彼の死の翌年、1929年のことであった。死を迎える際に、果たして彼はカトリックに帰依したのであろうか。
 この点について面白いエピソードがThe Janacek Compendium に紹介されている。ボーカル・スコアを担当した音楽家、ルドヴィーク・クンデラ(作家ミラン・クンデラの父)が、「ヤナーチェクは今や老人となり、堅実な信仰者となった」とコメントしたのに対して、「老人ではない、信仰者でもない、若造が!」 というハガキをクンデラに送り付けたという。
 筆者はこのミサをラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団の演奏のレコード(ドイツ・グラモフォンからCD化されている)で聴いた。信仰が何を意味するのかは難しい問題だ。しかしこのミサ曲がヤナーチェクの、人格神とは言えないまでも、汎神論的な信仰を表現しているように聴こえてくる。第一次世界大戦のあとの不安定な世相の中で、信仰が音楽に救いを求めているかのようだ。形式と内容は、カトリック教会のミサ次第に沿ったものだが、ところどころに典礼文の改変がある。

 マックス・ブロートのチェコ・ナショナリズム

  The Janacek Compendium を読んで、筆者はヤナーチェクとマックス・ブロートの友情がチェコのナショナリズムを媒介としつつも、さらに高みを目指す芸術の理念と深く結びついていることを知った。マックス・ブロートは詩人であり、翻訳家であり、作曲家でもあった。カフカの未刊行作品についての「遺言執行人」としても知られる。

マックス・ブロート(©Joost Evers / Anefo)
フランツ・カフカ

 終生の友マックス・ブロートに、カフカは死の直前、自分の未公刊の全草稿を焼却するよう頼んだ。カフカの死後、ブロートはこの要請に従うことなく、遺稿をも編集し『全集』を刊行したのである。今日われわれがこの二十世紀の最も良質の文学を読むことができるのは、このブロートの「誠実な裏切り」による。カフカの自己否定的とも言える「完全主義」から、ブロートの「裏切り」は世紀の傑作を守ってくれたことになる。ここにはカフカらしいひとつの逆理が存在するように思える。
 カフカ自身、二十代に社会主義、無政府主義、チェコ独立運動などに深い関心を寄せていた。彼の作品は「非政治」的だとみなされがちだが、その曖昧さに潜む政治的意味は見逃せない。『流刑地にて』『万里の長城が築かれた時』などは、それぞれヨーロッパ・ヒューマニズム論と社会主義論、あるいは官僚制論と読める。ナチス・ドイツがカフカの作品を嫌ったのは、単に彼がユダヤ人であったからだけではない。その作品の政治的意味に大きな不都合があったからであろう。
 カフカが創り出した言語世界は、宇宙的広がりと、未来への黙示を感知させるような奥深さを秘めている。この図り難いほどの広さと深さは、カフカがチェコでイディッシュ訛りのドイツ語を話すユダヤ人(つまり少数派の中の少数派)であったこと、独身であった(三度も婚約破棄をしている)ことと無関係ではあるまい。少数派が普遍性を獲得するためのエネルギーが創作のバネとなったと思われるからだ(F.R.Karl, Franz Kafka)。ドイツ語を話さない多数派のチェコ人は、少数派の上流階級のドイツ人に対しては親近感を持たない。ユダヤ人はたとえドイツ語を話してもドイツ人ではない。つまりチェコのユダヤ人は、ドイツ語のハンディキャップと非キリスト教徒であるという差別意識から自由になれなかったのだ。
 『変身』にも、『ある犬の探究』にも、このカフカの複雑な文化的背景が影を落としている。物語集『村医者』に収められた掌編「家父の気がかり(Die Sorge des Hausvaters)」も、カフカ自身の言語問題と引き裂かれた文化状況を曖昧かつ簡潔に描いている。この分裂は、彼の「たとえ話」や「パラドックス」の中でもみごとに言語として定着した。
 カフカの作品を、彼自身の置かれた文化的あるいは家庭状況に照らして解釈することはできる。しかし彼の作品はそうした個人的な状況を超えた普遍性をもっている。彼の三つの長編(いずれも未完であった)『アメリカ』『審判』『城』は、どれも細やかで明晰な描写とシュルレアリスティックな発想だけでなく、ユーモアと逆理に溢れている。カフカのドイツ語は、文体・語彙いずれから見ても単純明快である。にもかかわらず、読む者は各人その読み取る力に応じて、何かを汲み取ることができる。「うわべの単純さ」(deceptive simplicity)の奥には、存在の深い淵が秘められているのだ。
 マックス・ブロートはヤナーチェクの音楽の熱烈な「伝道者」であり、ヤナーチェクを世界の大舞台に押し出すうえで重要な役割を演じた。ヤナーチェクはブロートの自分に対する無私の貢献と、ブロートとの作曲をめぐる論争から多くのヒントとアイディアを得たと語っている(Compendium)。
 そのブロートは、1939年のドイツ軍のチェコ侵攻の直前に妻とプラハを脱出し、ルーマニア経由で(現在の)イスラエルのテル・アビブを定住の地とした。

郷愁と普遍性(universality)

 フランツ・カフカとヤナーチェクは少なくとも2度会っている。ほぼ同じ時期にプラハに居たから不思議なことではないかもしれない。ただこの二人が直接言葉を交わす機会があったということは筆者にとっては驚きだ。いずれも共通の友人であったマックス・ブロートの仲介による。最初の出会いは、プラハのブロートのアパートで、2回目は、ベルリンの国立歌劇場で1924年3月、エーリッヒ・クライバーの指揮でヤナーチェクの『イェヌーファ』が初演されたときである。どのような会話が交わされたのかは知る由もない。
 ブロートは『イェヌーファ』のドイツ語訳をカフカに送っている(1917年10月)。カフカはその返事の手紙で、ブロートのドイツ語訳を大いに褒め、いくつかの改訂を提案した。2回目の出会いの3か月後(1924年6月)、ブロートはヤナーチェクに「御存じかと思うが、わたしは最良の友を喪った。小生の家で、そしてつい最近、ベルリンのアンハルター駅であなたも会った詩人のフランツ・カフカです」と書き送っている(Compendium)。
 ヤナーチェク、ブロート、カフカという3者の交流の様子を垣間見ると、チェコ文化圏は単にナショナリスティックなだけでなく、そこにはるかに普遍的な文化価値を創り出した芸術家たちの交流があったことが分かる。ヤナーチェクの作品は、「国民楽派」あるいは「チェコ民族の音楽」という範疇に閉じ込められない普遍性を持つ。その傍証を最後に二つほど挙げておきたい。ひとつは、オーストラリアの指揮者C・マッケラス(Charles Mackerras, 1925-2010)のヤナーチェクの作品への献身的な打ち込みかた、いまひとつは、ヤナーチェクとインドの詩人ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)との交流である。

チャールズ・マッケラス ©(Lesley Mair (Musicmum) on Flickr

 マッケラス自身はオーストラリア人を両親とし、ニューヨークで生まれた。教育はオーストラリアで受け、英国に渡っている。1947年からチェコに留学し、ヴァーツラフ・ターリヒに指揮を学び、滞在中にヤナーチェクのオペラをすべて鑑賞、ヤナーチェクへの関心と理解を深めた。そしてヤナーチェクの音楽が英国ではまだほとんど演奏されることがなかった時代に、オペラ『カーチャ・カバノヴァー』を初めて英国で上演するのである。
 指揮者としてのマッケラスのレパートリーはきわめて広い。その中でもヤナーチェクのオペラの録音は重要な業績と目される。彼のヤナーチェクへの傾倒ぶりは徹底しており、ヤナーチェクの「発話旋律」の意味を理解するためにチェコ語を習得するほどであった。そしてヤナーチェクの作品を指揮するだけでなく、ヤナーチェクのスコアの不備を補筆改訂する仕事にも打ち込んでいる。
 2010年7月23日のコヴェント・ガーデンのマッケラスの葬儀では、生前の希望により、彼が最も好んだオペラ『利口な牝狐』の最後のシーンが演奏された。これもヤナーチェクの音楽が一つの国、一つの民族の中にとどまるものではなかったことを示すエピソードだ。

ラビンドラナート・タゴール

  ヤナーチェクの音楽の普遍性(universality)を示すもう一つの例として、彼とタゴールとの精神的な交わりがある。タゴールが1921年にプラハに講演に来た時のことであった。すでに彼は「非西洋人で最初のノーベル文学賞受賞者」としてヨーロッパでも広く知られた存在であった。タゴールの『ギータンジャリ』はW・B・イェーツ(日本の能の愛好家でもあった)の紹介文を付けた英訳が刊行されていたからである。タゴールの講演はヤナーチェクに強い印象を与えた。というのはタゴールが英語でもチェコ語でもなく、自分の母語で講演したからだ。「われわれには理解は出来なかったが、彼の声の調子からその魂の苦い痛みを認識できた。」と書いている(Compendium)。科学や学術の世界では起こりえない現象であるが、芸術の世界では言語を超越したところでの「理解」が成り立つということであろう。これはヤナーチェクの「発話旋律」の考えを裏打ちする出来事でもあった。
 ヤナーチェクの墓石には、彼が曲を付けたタゴールの「さまよえる狂人(The Wandering Madman)」(男声合唱とソプラノ独唱)からの一節、「彼の体躯は押し曲げられ、その心はチリの中、あたかも引き抜かれた木のように」 が刻されているという。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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