男たちの住んでいる廃バスは2部屋に分かれていて、奥の部屋は寝室になっているようだった。なんでもこの廃バスはたったの10万円で購入できたらしい。
居間でお茶を飲みながらしばらく世間話に興じ、帰る頃合いを見計らって立ち上がる。
「ありがとう。そろそろ行くよ」
しかし、体格の良い長身の男の方が立ち上がり、おれの腕を掴む。
「待て。お前のその携帯、うちの羊3匹と交換してやるから俺に渡せ」
男が腕を掴む力はかなり強い。冗談の類ではなさそうだった。
「嫌だよ。それに羊なんてどこにもいないじゃないか」
腕を掴まれた時の対処はこれまで何度もしてきていたので、腕を捻って男の手をゆっくりとほどく。
しかし、男はすぐにバスの扉へ回り込み、出口を塞いだ上で今度はおれの服をしっかりと掴み、苛立った様子で凄んできた。
「おい寄越せよ。何逃げようとしてるんだ!」
服を強く掴まれたんじゃ、そう簡単には逃げられない。
廃バスから国道までは少し距離があるので、ここで声を出しても誰にも聞こえないだろう。
さらに、今のおれの力では、いくらキックボクシングをしているといってもこの長身の男を倒して逃げるのは無理だ。相手は2人いる。
穏便に長期戦に持ち込んで隙を突くしかないだろう。
接客業におけるクレーム対応……と言うといささか表現が軽いが、こういう時は相手の怒りの温度を下げたり、意識を他へ向けさせたりするような言動を徹底すると良い。
男たちの羊の有無や彼らの暮らし等について他愛もない話をじっくりとして男の温度を下げながら、タイミングを見計らってさりげなく服を掴む手をどける。ここまでに1時間以上かかったが、順調だ。
そして最後は隙を突いて、男を横に押しやり少し無理やりながらも外へ飛び出した。上着が破れる音がしたが、外へは出られた!
警戒して外に置いておいたバックパックとアカシュ、サナ、シロを一気に回収し、国道へ向かって全力で走る。ちなみに家畜結びをしていたので、一瞬で縄をほどいて動物たちを連れて行くことができた。
後ろを振り返ると、男たちが追ってこずにまだ車内にいるのが見えた。
男たちからは残念そうなようすが感じられなかったので、急ブレーキをかけて立ち止まる。
完全に取り逃がしたと諦めている可能性もあるが、違う気がする。
こういう時は、何か盗まれている場合がある。
急いでバッグや服のポケットを確認すると、ポケットに入れていたはずのメインのスマートフォンが無いことに気付いた。
服を掴まれた時だ! ポケットにはかなり気をつけていたが、どうやら相手はスリのレベルがかなり高かったらしい。
あのスマートフォンにはキルギスでの写真や動画データがほぼ全て入っているし、地図アプリでのGPSナビゲーションにも必要だ。予備のスマホはあるので無いと致命的とは言えないながらも少し困る。
よし、戻ろう。
国道の近くに荷物を置いて動物たちを繋ぎ、再度廃車両へ向かう。荷物は無防備になるが、廃バスから見える位置なので問題ないだろう。シロもいるし。
ちなみに今回の場合、おれが諦めなければスマートフォンはほぼ確実に返ってくる。
盗んだ相手の住居が分かっているので、この国なら警察の助けを借りることが出来そうだからだ。これまでのやり取りから考えても、激昂させない限りはおれを殺したりはしないだろう。
廃バスへ戻り、男たちに軽く会釈して中のようすを窺う。ご丁寧に、おれのスマートフォンは部屋の隅の棚の上に置かれていた。
「忘れ物だ」
中へ入り、何事も無かったかのようにスマホを回収し外へ出ようとしたが、また入り口に長身の男が立ちはだかる。
「おいお前、警察に何か言うんじゃないだろうな?」
「言わない言わない。忘れ物を取りに来ただけだ」
そう簡単には出られないだろう。また時間がかかりそうだ……。
その後、数十分にわたる男たちとの問答を経て、今度は出る時にかなり強く突き飛ばされながらも、何とか何も失うことなく事を収める事ができた。
しばらく歩いて、安全を確認してからいつも通り1人反省会を始める。
やはり最初に感じた通り、あの男はおれから金や物をふんだくろうと考えていたらしい。これがもっと治安の悪いアフリカの紛争地帯だったら殺されていたかもしれない。今回で判断精度の確認ができて良かった。
さっきはもう少し引き際をうまくすれば、より安全に逃げられただろう。お茶が残っている状態で屋外のトイレにでも行くと言って外へ出て、そのまま動物たちを連れて逃げた方が良かったかもしれない。
また、キックボクシングに関しても、今後冒険を続けるならあの長身の男に勝てる程度の技術は必要だ。日本へ戻ったら師匠の元で改めて猛特訓をした方が良い。
今回のこの経験とその後の反省が将来的におれを守ることになるかもしれないので、しっかり反省して今後に活かしたいところだ。
夕暮れ時、何とか目的の集落に到着……したものの、どの建物も廃墟のような雰囲気で、人が住んでいる気配は無かった。この辺りはかなり寒いので、夏の間だけ人が住んでいるのかもしれない。
1軒だけでも誰か住んでいる家は無いかと辺りを見回すと、廃バスの前にご老人が1人佇んでいたので、駆け寄って話を聞くことにした。
「こんにちは! 僕は日本人でGoといいまして、羊と犬と旅をしているんですが、この辺りには今はほとんど誰も住んでいないんですか?」
「こんにちは、私はメリシだ。この辺りじゃ冬場はほとんどの人が別の村で暮らすから、暖かくなるまでは私しかいないんだよ。良かったらお茶でもどうだ?」
「ありがとうございます! ぜひ!」
メリシおじいさんは先ほどの男たちと同様に廃車両の中で暮らしていて、どうやらこの村の管理人のような立場らしかった。冬の間は皆あまりの寒さに親戚の村へと下山するため、おじいさんだけになるらしい。
そして有り難い事に、おじいさんはシロたちを屋内へ、そしておれもおじいさんが暮らす廃車両で寝られるようにしてくれた。廃車両では人が移動するたびに少し揺れるので、横になっているとなんだか新鮮で楽しい。石炭ストーブもあるので中はとても暖かく、ぐっすりと眠ることができた。


そして次の日、出発しようと外へ出ると、メリシおじいさんが呼び止めてきた。手には小瓶を持っている。
「Go、こいつを持っていくといい。元気が出る」
「これは何ですか?」
「リンゴと蜂蜜のジュースだ」
「ありがとうございます!」
すり下ろされたリンゴと蜂蜜を混ぜた少し白っぽい液体で、舐めてみると濃厚な蜂蜜の甘さが口に広がった。日本のものよりも濃厚で粘度の高い蜂蜜が使われていて、確かに栄養価が高そうだった。道中で何軒か蜂蜜を売っている屋台を見かけたので有名なのかもしれない。
後で知ったことだが、どうやらキルギスの蜂蜜は世界的に人気らしい。標高が高いキルギスの高山植物からできた蜂蜜は白く、濃厚な味になるようだ。
出発し、雪山の頂上から20kmほどの所にある集落を目指す。そこはサリチェレク湖のあるジャララバード州とタラス州への分岐路にもなっているので宿屋などは確実にあるだろう。順調にいけば明日山頂に到着するはずだ。
そういえば最近、走るように指示を出すと90%くらいの確率で羊たちが走ってくれるようになった。今までは全く言うことを聞いてくれなかったので驚きだが、もしかするとシロがいる影響かもしれない。
ネコ科の大型動物を懐かせるには犬と一緒に飼うと良いという話を聞いたことがあるが、アカシュとサナもそれと同様にシロの行動から学び社会性を身に付けつつあるのだろうか。
特にサナはシロを群れの一員と認めたようで、シロが近付いて来ても嫌がるそぶりを全く見せなくなった。アカシュは未だにシロを威嚇する時があったが、それはシロが仲良くなろうとアカシュの顔を舐めようとした時だけなので、どちらかと言えば距離感を弁えないシロの方に非があるだろう。アカシュは群れのリーダーとしての威厳を保つためにも慣れ合う訳にはいかないのかもしれない。
標高はすでに2500mを超えていて、道路以外はほとんど雪で覆われていたが、羊たちの食べる草はまだ何とか生えてくれていたので餌の心配はしなくて良さそうだ。
日が暮れる頃、目的の集落に到着。カフェがあったので食事をしながら泊まれそうな場所は無いかと店主のおばさんに相談したところ、閉店後のカフェで泊まらせてもらえる事になった。ここはキルギス西部の二大都市の分岐路になっていることから長距離トラックの運転手などがよく休んでいくらしく、おばさんは慣れたようすで「泊まってもよいわよ」と快諾してくれた。
そして翌日、気合いを入れ、山頂へ向けて出発。
いよいよラストダンジョンも佳境だ。ここからは更に気温が下がり人もいなくなるので難易度が跳ね上がるだろう。
ちなみにこの先にはもう雑貨屋などは無く、山を越え麓へ行くまでは食べ物が手に入らないらしかったので、寝泊りしたカフェで食べ物を補充しておいた。大きな円形パンを4つとゆで卵を3つ購入したので、シロとシェアしても2、3日はもつだろう。
今日は今回のキルギス滞在の中で最も寒い日になるだろう。マイナス5℃くらいだろうか。羊たちの安全は確保できるだろうか。
これから待ち受ける雪山山頂の脅威を楽しみにしながら、上機嫌で歌を歌って歩く。大型のトラックは何台も通っていたが、辺りに家など何も無いこんな道を無意味に歩く人はいないだろうから、大声で歌っても誰にも聞かれないだろう。
と、思っていたが、今日に限っては違ったようだ。ふと後ろを振り向くと、スマートフォンのカメラをこちらに向けて構えながらおれと同じペースで歩く男が10mほど後ろにいた。
動画を撮られているらしい!
恥ずかしいやら、なぜ男がこんな所にいるのか謎やらで混乱したが、ひとまず立ち止まって男の出方を窺うことにした。
「いいよ、そのまま歌い続けて」
「続けないですよ!」
どうやら男は仕事場に向かう途中で、足が無かったため歩きながらヒッチハイクをしているところだったらしく、しばらくすると後ろから来た車を捕まえて乗り込み仕事場へと去って行った。
今後歌う時はきちんと周囲を確認してからにすべきだ。
一面が雪で覆われた大地はおれの好きな砂漠に似ていて、なんだか落ち着く。

夕方になる少し前に頂上に到着した。麓からここまで何日もかかったが、ようやくここまで来た! 路面は凍結し、辺りを真っ白の雪が覆っていて厳しい寒さに頬が引きつり少し痛い。
普段暮らしている世界と大きくかけ離れた「氷の世界」と言えるような環境だが、それだけに歩いて来られた事による感動は大きかった。
散々無理だと言われた雪山登山、できるじゃないか!
今日は時間的にほとんど進めないにしても、あとは慎重に下山すればこのラストダンジョンはクリアできるだろう。
頂上には2軒の家があったが両方とも入り口が雪に埋もれていて、外から南京錠で鍵がかけてあった。
今は誰も住んでいないらしい。標高は3175mで他の地域よりもずっと寒く風が強いので、わざわざここに住もうとする人がいないのだろう。
辺りを見渡すと、物置や倉庫として使われていたであろう建物の残骸がいくつかあったが、長いこと利用されていないようだった。建物の窓は割られているかガラスが嵌っていないかで、ほとんど全ての入り口のドアが開け放たれた状態で雪に埋もれていた。
このようすだと、麓へ向かってもう少し歩いたとしても今日中に民家に辿り着くことはできないだろう。民家どころか、こういった家々や残骸すら無い可能性が高い。
先ほど雪の上に点々と残るオオカミの足跡らしきものを見かけたので、この山にもオオカミが生息しているのだろう。となると屋外やテントでは羊たちを朝まで守り切れない。
さて、どうしたものか……。
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春間豪太郎
はるま ごうたろう 1990年生まれ。冒険家。行方不明になった友達を探しにフィリピンへ行ったことで、冒険に目覚める。自身の冒険譚を綴った5chのスレッドなどが話題となり、2018年に『-リアルRPG譚-行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』を上梓。国内外の様々な場所へ赴き、これからも動物たちと世界を冒険していく予定。
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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。
「考える人」編集長
松村 正樹
著者プロフィール
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- 春間豪太郎
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はるま ごうたろう 1990年生まれ。冒険家。行方不明になった友達を探しにフィリピンへ行ったことで、冒険に目覚める。自身の冒険譚を綴った5chのスレッドなどが話題となり、2018年に『-リアルRPG譚-行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』を上梓。国内外の様々な場所へ赴き、これからも動物たちと世界を冒険していく予定。