Webマガジン「考える人」

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

おんなのじかん

 前回、消息不明の父のことをちらりと書いたら、なんと父から何十年かぶりに連絡があったらしい。母方の親戚の家に電話してきた父は、離婚した際、母に預けた手形を返せ、と言ってきたそうだ。
 まだ生きてたんだ、とまず驚き、まだお金に困ってるんだ、と続いて思った。
 母が言うにはそんな手形など預かった覚えはないし、仮に手形があったとしても、祖父の会社だってもうとっくになくなっているのでなんの意味もない、ということだった。何度説明しても父はそれを呑み込めず、電話口でえんえん喚きたてていたという。おそらく認知症がはじまっていて、唐突に昔の記憶がよみがえって電話してきたのではないかというのが、直接、電話を取った伯母の見立てである。
「ずっと会いたかったけど、これでもう会うことはなくなったね」
 と言う妹に、
「それでも私は会いたいよ。会ってちゃんと父親に失望したい」
 と私は答えた。
 ずっと、その機会を不当に奪われ続けてきたという感覚がある。私にとって父親というものは「いないもの」で、だからいまでも甘くロマンティックなものとして心の一部を占めている。

「お父さんって、どんなかんじの人だったの?」
 いつだったか、夫に訊かれたことがある。
「玉置浩二と大竹まことを足して割ったみたいなかんじ」
 と答えたら、
「それ、めちゃくちゃかっこよくない?」
 と夫は驚いていた。
 言われてみりゃそうだな?!
 指摘されて、私も驚いた。
 だけどほんとうに、私の薄ぼんやりとした記憶の中の父はそういうふうなのだ。若いのにシルバーグレーの髪。髭は生えていたりいなかったり。眼鏡を取ると、急に知らない人みたいに見えてどきりとした。
 両親が離婚したのは、私が小学校一年生のときだった。
 放蕩者だった父はほとんど家に寄りつかず、賭場や酒場に出入りして、とんでもない額の借金をこさえてきては、祖父にぜんぶ肩代わりしてもらっていたそうだ。たまに酔っぱらって帰ってくると母が止めるのも聞かずに寝ている娘たちを叩き起こし、「パパとママ、どっちが好きだ?」と問い詰める。「どっちもおんなじぐらい好き」と要領よく答えた私は早々に解放してもらえたが、「ママのほうが好き」とかたくなに譲らなかった妹はいつまでも許してもらえなかった。
 浜松から新幹線に乗って新宿紀伊國屋と八重洲ブックセンターに本を買いにいくほどの読書家で、絵に描いたような高等遊民だったこと。家族四人で食事するのにフレンチレストランを貸切にしたこと。唐突な父の思いつきで開園したばかりのディズニーランドに向かい、入場待ちの列にひるんで上野動物園に向かったものの休園日で、最後に滑り込んだとしまえんでメリーゴーラウンドだけ乗って帰ってきたこと。
 いっしょに暮していたころの父の記憶はほとんどなく、すべて母から聞いた話だ。
 離婚後も、夏休みと冬休みには名古屋から高速バスに乗って、浜松の父のもとへ遊びに行った。といっても、停留所まで迎えにきてくれるのは祖父母だったし、健康ランドや川に遊びに連れて行ってくれるのも祖父母だった。父はたまにふらりと顔を出すぐらいで、間が持たなくなると小学生に一万円という大金を握らせ、すたこらさっさと逃げていった。ときには、おもちゃ屋でなんでも好きなものを買ってくれることもあった。だからうちにはファミコンのソフトが山ほどあったし、小学校低学年の子どもには分不相応なディスクシステムまであった(実際まったく使いこなせなかった)。
 そういう形でしか、子どもに愛情を示せない人だった。自分の時間を割いてまで子どもにかかわる気などなく、金さえ与えておけば役目を果たせると思っていたんだろう。そのくせ、愛情の見返りをきっちり求めてもいた。
 どうしようもない父親だと切って捨てられればいいのだけれど、いまの私はむしろ彼にシンパシーを覚えるような大人になってしまったので、失望は遠のくばかりである。
「新しいお父さんのこと、好きか?」
 名古屋の地下街を父に手を引かれて歩きながら、そう訊かれたことをいまでもはっきり覚えている。母の再婚が決まり、父が名古屋まで会いに来たときのことだ。母と妹はどこかの喫茶店にいて、私は父に連れられトイレから帰ってくるところだった。
「うん、好きだよ」
 なんにも躊躇することなく、ごくごく普通に答えた。そっか、と父はつぶやいて、それきりなにも言わなかった。パパとどっちが好きかと訊いてくれたら、「パパに決まってるじゃん」と答えてあげたのに。

 それから父も再婚した。私には母親のちがう弟がどこかにいるはずなのだが、生まれたばかりの赤ん坊の姿しか見たことがない。面白半分で会ってみたいとは思うけれど、その後、どうしたらいいのかお互い困るだろうから会わないでおくほうが賢明だとも思う。
 いつかこんな日がくることを母は恐れていた。お金に困った父が娘たちに会いにきて無心することを恐れるあまり、父とつながる糸を断ち切った。それでも古い電話番号は生きていたわけだから、本気で会いたいと思えばいくらでも会いに来られたはずだけど、父は一度も私たちの前にあらわれなかった。
 いまなら自分で選べる。母は望まないだろうが、会いたければいかようにしてでも会いに行ける。だけど私には、それだけの覚悟も胆力も気力もない。
 一度、夫の運転する車で浜松の祖父母の家を見に行ったことがある。そこに父がいないことはわかっていたが、チャイムを鳴らしさえすれば父につながる糸があるはずだった。日付が変わるぐらいの遅い時間だったことを言い訳にして、私はその糸に手を伸ばそうとはしなかった。
 たまに会っておいしいものを食べてお小遣いをあげて、それぐらいで済むならいますぐにでも会いに行きたいが、父がいまどういう状況にあるのかわからないからそれが怖い。百万か二百万か、その程度の金を渡してすっぱり別れられるなら、金なんていくらでもくれてやるけれど、別れられなかったときのことを考えると恐ろしくて足がすくむ。
 私も父と同じだ。自分の時間や労力を割いてまで、いまさら父にかかわりたいとは思えない。金で解決できるならそのほうがいい。離れていた時間を乗り越えられるほどの気持ちがもうない。もっと早い段階でとことんまで父親に失望できていたら、こんなふうに揺れることもなかったのだろうが、その気になれば会いに行くことだってできただろうに行かなかった。それがすべてだという気もする。
 いつかこんな日がくることを私も恐れていた。いつまでも甘い感傷に酔っていたかったが、いよいよ父を捨てなければならないようだ。
 ところで私は『ロイヤル・セブンティーン』というアメリカのティーン映画が大好きなのだけど、生き別れの父親が実はイギリスの名門貴族でした! なんておとぎ話に自己投影してべちょべちょに泣いてるあたり、ほんとうにいろいろとだめだと思う。だって父親を演じてるのがコリン・ファースだよ?! いいかげん目を覚ましてほしい、自分……。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

吉川トリコ

よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。

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