Webマガジン「考える人」

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おんなのじかん

2019年11月6日 おんなのじかん

4.おれはジャイアン

著者: 吉川トリコ

「ネタにしてもいいよ」
 小説家になってからこれまで、人から何度言われたことだろう。親戚や同級生や古くからの友人、もう名前も顔も思い出せない通りすがりのだれかから頼んでもないのにネタを提供される。小説家あるあるの一つである。
 自分が置かれた状況や自分の身に起こった出来事が特殊なものだと彼らは信じて疑わず、さらには特殊な事象を書いてこそ小説だとも思っているものだから、よかれと思ってネタを提供しようとしてくれるわけだけれども、
「ごめん、あなたがあなたの人生に興味があるのはわかるけど、私はそれほど興味ないし、ましてや小説に書きたいとは思わない」
 などとは言えるはずもなく、へらへら笑って聞き流すしかない。そんなに言うなら自分で書いたらいいのに、いまの時代、出版以外にもいくらでも発表手段はあるじゃないか、とも思うけど、どうやら自分で書く気はさらさらなさそうなのが不思議なところである。
 島田洋七さんの『がばいばあちゃん』シリーズが映像化されたときなど、
「うちのばあさんを小説に書け! がばいばあちゃんなんか目じゃないぐらい面白いばあさんだで売れるに決まっとる!」
 と母や叔母が大騒ぎしてほんとうにうんざりした。
 たしかにうちの祖母はユニークな人だけれど、はたしてそのユニーク具合がいかほどのものか――身内だから面白いのか、相対的に見ても面白いのか、私には判断がつきかねるし、その特殊性にフォーカスするような小説をそもそも書きたいと思わない。私が祖母のことを書くならもっとちがったアプローチを取る。しかし、目を¥マークにした母や叔母にそんな話が通じるわけもなく、第二の『がばいばあちゃん』を書けと、おそらく『がばいばあちゃん』をまともに読んだこともないだろうに言いつのるのであった。かんべんしてくれというかんじである。
「これ、私のことでしょう?」
 書きあがった小説を読んでそう訊かれたことも何度となくあった。これも小説家あるあるの一つではある。
 そう訊いてくる人にかぎって頭の片隅にもないことが多い、とだれだったか小説家が書いていたけれど、私の場合は微妙なところだ。書いているあいだ、その人のイメージがよぎらなかったと言ったら嘘になるが、その人をモデルに書いたとか、その人そのものかと訊かれたら、ちがうとしか言いようがない。
グッモーエビアン!』という小説にヤグとあきという名前のキャラクターが登場するのだが、私にはヤグとあきという名前の友人夫婦がいて、小説の結末と同じように彼らもまたオーストラリアに移住した。しかし、小説の人物とはまったくの別人である。

 小説に関してははっきりとそう言い切れるんだけど、目下、私が頭を悩ませているのはエッセイについてである。もっと言えば、この連載についてである。
 もちろん、小説に書くことが100%フィクションだとはかぎらないし、エッセイに書くことが100%事実だともかぎらない。けれども、エッセイで「私」と書くとき、それはおそらく≒私だし、「夫」と書けば≒夫になる。読者もそのつもりで読むだろうし、私もそのつもりで書いている。
 ジェーン・スーさんの『生きるとか死ぬとか父親とか』の中に、「君のことを書くよ」と父親に許可を取る場面がある。ユニークで人たらしな、なかなかの放蕩者である父親のことを書いたエッセイで、おかしくもかなしく、べらぼうに巧く、縁を切りたくても切りきれずにだらしなくつながっている父娘の姿に羨望をおぼえたりもしながらすみずみまで堪能したけれど、正直に言うとこの箇所が私にはいちばんの衝撃だった。
 エッセイに書くなら相手に許可を取る。身内だろうとなんだろうとちゃんと訊く。必要があれば書きあがった原稿をチェックしてもらう。プライバシーにかかわる問題なのだから当然だ。圧倒的に正しい。正しすぎてぐうの音も出ない。
 しかし、いまのところ私はそうする気にはなれないのだった。許可を取ることで書くものが変質してしまうのではないかという怖れがまずあって、それから、私の人生に重なったその人の一部はもはや私のものではないか、というジャイアン的な傲慢さがある。それでもいちおう「ここまで」と決めたラインがあるにはあって、それなりに節度を持ったきれいなジャイアンであろうとはしているのだが、なにかのきっかけで――たとえば表現欲とかいった厄介な怪物に呑み込まれたら、やすやすとそのラインを超えてしまえる危うさがあることも自覚している。
 あるときから夫は、私の書くものをいっさい読まなくなった。そこに、自分の影を読み取ってしまうのを怖れているんじゃないかと思う。ちゃんと確認したことがないのでわからないが、もしかしたら単につまらないから読む気にならないだけかもしれない。
 いまから二十年ほど前、恋愛浮かれバカ時代に、当時はまだ籍を入れていなかった夫とお金を出し合ってiMacを買った。00年代初頭に一世を風靡したディスプレイ一体型のあいつである。我が家のカラーはタンジェリンだった。
 noteもはてなもmixiすらまだないネット黎明期、そのiMacを使って私はHTMLタグをせこせこと手打ちし、夫との生活をひたすら綴るだけのテキストサイトを立ちあげた。現在でいうところの新婚主婦ブログ的なノリのサイトである。なにか書きたいという欲求がまずあって、当時いちばん興味のある対象といえば夫だったので、夫のことを書くのはごくごく自然なことだった。これを黒歴史と呼ばずしてなんと呼べばいいだろう。
 そのサイトをたまたま目にした夫は、嫌悪感を隠そうとしなかった。いまから考えれば、そりゃそうだろうなというかんじではあるが、当時はなにしろ恋愛浮かれバカだったのでそこまで考えが及んでいなかったのだ。このままではこの人を失う、と焦った私は即座にサイトを閉じ、別のサイトを立ちあげて小説を書きはじめた。
 そうしていま現在、この連載をはじめるにあたって、ずっとおざなりにしてきた問題に直面しているというわけである。思い出したくもない黒歴史がフラッシュバックし、日々私を苦しめているというわけである。何度か、妹たちから抗議の声があがったこともあり、そのたびにライン設定の甘さを反省し、微調整をくりかえしながら、それでもいまのところ書かないという選択肢は私の中にはないのである。
 他の人たちは、みんなどうしてるんだろう。スーさんは父親に許可を取っていたが、洋七さんが祖母に許可を取っていたとは考えにくい(そもそも『がばいばあちゃん』は小説である)。小説家あるあるなどでは生ぬるい。一人一人にアンケートを取ってまわりたいぐらいである。家族や友人やパートナーのことを書くときに許可を取っていますか? 相手の意図を汲んで内容を捻じ曲げなければならなくなったらどうしますか? 行方不明の父親にまで許可を取るべき? 旅先ですれちがっただけの人は? 育児エッセイを書くとき、乳幼児からの同意はどうやって得ればいいのでしょう? 死んでしまった人のことはどうします? そうそう、だれかの訃報が出た瞬間、故人の思い出をSNSで語り出す人がいるけれど、死んだとたんにプライバシー権はなくなるものだと思いますか?
 正解がほしいな、とこんなとき、つくづく思う。だれか頭のいい人が考えて出した正解をいますぐ教えてほしい。
 ……いや、相手に許可を取るのが正しいというのが、おそらくはファイナルアンサーなのだろうけど、たとえ許可を取ったところでできあがったものがその人を傷つけないという保証はどこにもない。みずからネタを提供してくれようとしたあの人たちだっていざ書かれたものを読んだら激昂しないともかぎらない。「ネタにする」ことの暴力性をどこまで理解しているのか、彼らはきわめて無防備であるように私の目には映る。

 以前、ある友人の作家に、私と夫のことをエッセイに書いてもいいかと訊かれたことがある。私たちのきわめてプライベートにかかわることを書きたいのだと友人は言った。個人を特定されないように気をつけるから、と。
 え、やだよ、と考える間もなく即答した。ぜったいに無理だからやめてくれと思った。なにがそんなにいやだったのか、当時は突き詰めて考えもしなかったのだけれど、おそらくネタとして消費されることへの嫌悪感があったんだと思う。これは私のものだ、だれにも書かせない、という気持ちもおそらくはあったのだろう。それはラインの向こう側にあるものだから、この先、自分で書くことになるかもわからないのだけど。
 しかし、その一方で、友人が許可も取らず勝手に私たちのことを書いたら書いたで、ふうん、と受け止めたという気もする。「書いていい?」と訊かれたから、「いやだ」と答えたまでのことで、「おまえとはもう縁を切る!」とか、「プライバシーの侵害で訴えてやる!」なんてことにはなりようもなかったんじゃないかって、いまとなっては確かめようもないけれど、なんとなくそんな気がするのだ。
 良くも悪くも、エッセイとはそういうものだという考えが身に染みついてしまっている。一度でも作家の目に触れてしまった以上、書かれてもしかたないじゃないか、と。少なくとも私がこれまでに読んできた作家たちが、対象に許可を取っていたとは思えない。いやだと言われたら書けなくなるから訊かないでおいたほうがいい。そういうふうになあなあでやってきたものだから、このままなあなあでやっていけたらいいなと思っている。
 我ながらなんたる思考停止だろう。時代の変化とともにコードも変わっていくのだから、なるべく柔軟に対応していきたいなとはつねづね思っているが、この件に関しては呆れるほど前時代的でかたくなな自分がいる。もちろん、ラインを飛び越えないように、最善を尽くしたいと思ってはいる。思ってはいるんだけれど。
 家族に愛想を尽かされ、ひとりぼっちになってしまうことに怯えながら、それでも私は書くのだろう。
 ジャイアンはジャイアンだ。きれいも劇場版もない。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

吉川トリコ

よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。

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