考える人

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

雑貨の終わり

 亀山さんと会わなくなって半年ほどがすぎた夜、桜の花びらがふりそそぐ神田川ぞいを歩いていると、光る玉が水面からのぼり瓦屋根のうえに消えた。ゆらゆらではなく、滑るような動きに違和感をおぼえながらも、小さな火の尾が逃げこんだ虚空を目で追う。春の霞のなかでぜんぶがぼんやりしていた。いまふりかえると、対岸の道にいた少年がむやみやたらとふりまわしていた懐中電灯の光だったのかもしれないのだが、そのとき私は亀山さんが亡くなったのだと思った。子どもの父親らしき低い声がして目をやるも、どちらの顔も体も(すみれ)色の夕闇に溶けこんでしまったあとだった。
 亀山さんは銀座の古本屋の娘として育ち、戦中は郊外の親類の家に居候していた。帝都をねらった数えきれないほどの空襲の夜を庭先の壕のなかで過ごし、もちろんあの東京大空襲の日も、父親の店から拝借した宝塚のパンフレットや海外雑誌を少女はうっとりとめくりながら暗がりに座っている。そして、なすすべもなく被弾し燃えさかる都心を、あるいは学校や友人を、防火訓練や勤労奉仕を忘れ、暗い穴のなかで空想の皮膜を張りめぐらしていった。「楽しかったなんていえないわ。死んでいったひとたちに怒られるから。でもね、私は防空壕のなかが好きだったのよ。いまもよく夢に見るくらい。布団のなかにもぐって、横から顔だけだして本を読んだりする癖も、きっとそのせいね。灯具がなかったら手さえ見えない穴のなかは、あのころの私にとっては特別な場所だったの。だって蝋燭を灯したとたん、学校なんかとくらべものにならないくらい絵や言葉が頭のなかに入りこんできたんだから」。おかげで、亀山さんは明るい部屋で本を読まないらしい。蝋燭ってわけにはいかないから、常夜灯だけつけるのよ、と左右のちいさな手のひらのうえに見えない本をのっけるしぐさをする。
 空襲はおさまり庭の壕から這いでると、東の夜空が血みたいにどす黒い赤に染まっていた。にわかに信じがたい話ではあるが、亀山さんは数日後、玉川上水でたくさんの人魂(ひとだま)を見たという。でも怖くなかったの、そのうちのひとつは駅前の横丁へ溌剌(はつらつ)と飛んでいったわ。すると急にのどを震わせて、聴いたことのない切ないメロディーを口ずさんだ。浮世の街がはげしく燃えればもえるほど、少女は恐怖から逃れ安住の地をさがしもとめるように、体の内側に二度とぬけだすことができないほどの深い穴を掘っていき、その先で幻視した、救いの人魂であったのか。もちろん亀山さんの晩年しか私は知らないが、その防空壕のなかで大切に育んだ幻はやがて中空へと霧散し、土星の環のように彼女の生涯を彩りつづけたのだと思う。一瞬で世のなかの価値観が百八十度変わっちゃったんだから、そのあと両親もすぐに他界してさ、夢ばかりみてた私にとって戦後は新しい戦いのはじまりだったのね。
 亀山さんは私のことを出会ってから別れるまで「御曹司(おんぞうし)」と呼んだ。御曹司じゃないですよ、お金なんてどこにもないですから、と否定するとたいがいは、おじいさまがあんな立派な方なんですもん、御曹司に決まってるわととりあってくれなかった。たまに「じゃあ、いつか成功して御曹司になるのよ」といってくれることもあったけれど、開業してからいまも、小さな企業の勤め人とおなじくらいの給与がもらえれば御の字だとしてきたような小胆な私にかえす言葉はなかった。また亀山さんは数十年まえに亡くした旦那さんのことを終生「博士」と呼んだ。航空写真などを撮るためのプロペラ機を飛ばす会社を営んでおり、けっして博士などではなかった。「だって博士はなんでも知ってるんですもん。宝塚とか、海のむこうの物語なんかで頭いっぱいの、世のなかをなんにも知らなかった私とずっといっしょにいてくれたの。とてもじゃないけど、ひとりじゃ生きていけなかったわ……。でも気づいたら、ひとりになってずいぶんたっちゃったけど。ほんと、いやになっちゃう」
 私は一度だけ、博士のすがたを見たことがある。亀山さんの小さなハンドバッグには救心やカバーのない文庫本などといっしょに博士のモノクロ写真がいつも忍ばせてあって、話の流れで「一度お会いしてみたかったです」と口走ったとき、まんざらでもないようすで手渡してくれたのだった。長身でスーツ、白髪まじりのうねった前髪をふんわりと後ろに流した頭、切れ長の目と高い鼻、組みなれた足。冗談で「舘ひろしみたいですね」というと、「あらうれしい。でも私は小林秀雄さんに似てたと思うわ。仕事から帰ると、真剣な顔で本ばかり読んでて」と答えた。

 ここ数日、残された祖父の手記と、生前に彼の半生を聞き書きした私のあいまいな日誌を照らし合わせていたのだが、それによると一九七一年の夏、京都の伏見にあった祖父の会社に、見知らぬ初老の男がたずねてきたようだった。その太い首をした坊主頭の男は受付でぶしつけな訪問をわびたあと、特別操縦見習士官の第三期に御社の社長がいたと思うのですが、私は彼が属していた小隊の隊長をつとめていた者だと名乗った。祖父がいぶかしがりながら部屋から降りていくと、東山にある護国神社に特操の碑ができ、その除幕式や慰霊祭に参加してきた帰りだという。「無性になつかしくなってさ。だめもとで、えいやっとタクシーにのって立ちよってみたんだ」。最後に見たのは復員まえの焼け落ちた仙台霞目(かすみのめ)飛行場であったか。いわれてみれば少尉のおもかげもあったけれど、半信半疑のまま握手をかわした。あまりに突然のできごとで、どうやって男がじぶんの所在を知ったのかは聞きそびれたまま応接室に案内する。式典帰りで正装していたがスーツもネクタイもしわだらけで、顔は日に焼けて赤く、目がすこしにごっていた。京都に移り住んで二十数年、だれからも声がかからなかったこともあり、戦後、雨後の筍のように生まれたあらゆる戦友会を横目にひたすら仕事に打ちこんできた祖父は、もちろん特操の碑が近くにできたことなど知るよしもなかった。
 「お元気してはりましたか」
 「元気、元気。なつかしいなあ。酒井くんも元気そうだね。おたがいちょっと髪の毛が薄くなったぐらいで」と男は相好をくずしながらソファーに腰かけたが、すぐに、どこか落ちつかないようすで部屋を見まわす。ふたりが話をした小一時間ほどのあいだ、とぎれることなく高瀬川の蝉が絞りだすような濁声で鳴いていた。ゆっくりと時間をかけながら、祖父のいた小隊の隊長と目のまえの男がまじわっていく。と同時に、戦後は郷里の九州をはなれ、東京でひとり暮らしをしながら居酒屋を営んでいるらしい少尉が、ほんとうはいまもあの飛行場の兵舎で寝起きしているのではないか、といった想像を祖父がかきたてられたのは、終戦で別れをつげたときとおなじ丸刈り頭と無精髭だったから、というだけではなかった。男は「特操」「内地防衛」「復員」という言葉を昨日のことのようにつかった。帰りぎわ「おれは嫁さんも子どもも空襲で亡くしちまったせいなんだろう。じぶんが親しかった仲間たちはさ、とっくのむかしに死んだにちがいない、って思いこんで生きてきた。で、気づけばあとすこしで還暦になるんだ。歳月ひとを待たず。おれたちはもう、あのころみたいに若くない。だから近ごろは都内のいろんな戦友会に顔をだすようにしてみてさ。そこではじめて、まだ多くの生き残りがいるってことがわかったんだ。酒井くんの三期だけじゃないよ。おれがいた一期から最後の四期まで、戦後をおなじように生きてきたやつらがたくさんいたんだ。きみみたいに立派になったやつもいれば、おれみたいに男やもめのまま戦後をさまよっているやつもいてさ、なんだか笑えてくるんだけど」といって、しわだらけのハンカチで汗をぬぐった。
 そのとき祖父は、小学校にあがるまえからつきあってきたTという竹馬の友を思い出していた。なぜか、小学校の教室でじぶんが知らなかった「過酷」という漢字を教えてもらったときのことが最初に浮かんだ。部屋の片隅でストーブのうえの薬缶がこぽこぽと音をたてている。あれは何年生のときだったのだろう。ばらばらな記憶が消えては灯り、時間をよたよたと匍匐前進しながら頭のなかを照らす。今度は高等小学校。たぶん十四歳のとき、クラスの成績がとびぬけてよかった彼が、貧しい農家の次男坊だったせいもあったのか、進学をあきらめて国鉄に入るんだといった日。外は灰のような雪が舞っていた。祖父が岐阜の加茂農林学校へ進んだころ、Tは列車の運転手として社会で働きはじめる。師範学校にあがったときには、彼は海軍飛行予科練習生に志願していた。そのことを知ったのは、たぶん岐阜市内にできたばかりの、天井が高くて、かすかに百合の香りのするカフェだったように思う。これがTと会った最後だ。いつだって彼はじぶんのずいぶん先を歩いていた。学校も会社も軍隊も女もカフェもバーも、なんだってよく知っていたから。そんな後ろすがたをうらやみながら、一九四三年、翳る時局のなかで祖父は陸軍に入った。こうやって陸と海、それぞれちがう軍隊のなかでふたりは飛行機乗りとなったのだ。そして、ともに親しい幾人かの死とひきかえに、八月十五日の終戦をむかえる。しかしTは戦後を半月しか生きられなかった。多くの謎を残したまま、この世から忽然と消えてしまった。祖父は想像する。ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立った暑い夏の一日を。じぶんが郷里へとむかう夜汽車にゆられ瞼を閉じたころ、Tはひとり戦闘機に乗りこむ。そして木更津の基地から空に飛びたった。厚木飛行場にむけて? いや、もっと遠くにむかって? おどろくほどたくさんの星とエンジン音だけをしたがえて、静かな夜の海を渡っていく。撃ち落とされたのか、自爆だったのか。水面に触れたとき、あいつの機体は何色に燃えあがっただろう。絶命の瞬間は、どうやって人間におとずれるのだろうか——。結局なにもわからぬまま、想像のTは黒い東京湾に沈んでいった。
 「じゃあまた」という少尉の言葉でわれにかえる。「あんときはみんな青年でさ、なんにもわかってなかったよね。生きるのか死ぬのかも。生き残るってことが、こんなにたいへんだなんてこともさ。まるっきりわからなかった。とにかく、おれは探すよ。きみも時間ができたら京都で新しい戦友を探してみるといい」

 祖父が、少尉のいう「新しい戦友」を探しはじめたのは七〇年代も中ごろ、ちょうど五十をむかえ、事業も軌道に乗ってきた時期であった。経営者として地元のロータリークラブなどに熱心に参加する一方で、いくつかの戦友会に顔をだす機会もふえた。おなじ特操の三期生であった博士とは、おそらく同期の名簿づくりを進めるうちに出会ったのだと思うのだが、ふたたび手記を読みかえしてみると、ともに栃木県にあった陸軍の金丸原(かねまるはら)飛行場で訓練をうけていた時期があるらしく、もしかしたら戦中から顔見知りだった可能性もいなめない。ただふたりはすぐに親しくなった。おたがい飛行機乗りであるだけでなく、たくさんの戦友を失い、とりわけ趣味というよりも鎮魂のよすがとして祖父が仏を、博士が能面を彫っていたことが彼らの友情に強い絆をあたえたのだと思う。祖父のいた京都と博士のいた東京を、おたがい年に幾度もたずねあった。
 私が幼かったころ、外出する祖父の胸もとに放心しながら笑っているような、しわがれた老人の小さな仮面を見かけたことがある。シャツにジャケットを羽織りながら、ネクタイのかわりに人の顔をぶらさげるというみょうな正装すがたに、私は結袈裟(ゆいげさ)をつけたあやしげな修験者のような近づきがたさをおぼえた。姉とよく「あの木でできたちっこいお面、めっちゃこわない? ぜったいだれかの念がこもってるやろ」などと話し合っていたが、それはあながちまちがいではなく、出会ってまもない博士が祖父の仏像と交換するかたちでプレゼントした大切な物だったのだ。あるとき祖父が所蔵していた「天下一友閑(てんかいちゆうかん)」と銘がはいった江戸時代の(おきな)の能面を見せると、博士はそれをいたく気にいったみたいで、すぐに小さく精巧に写してループタイに仕立てたらしい。結局、何本つくられたのかわからないが、私は亀山さんと会った最後の日、彼女の胸もとにも祖父がつけていた物とおなじ翁を見ることとなる。
 そんな祖父が彫刻刀を置かなくてはならなかったのは心臓の不調からであった。気づいたときには心臓のもっともだいじな血管のうち三本がだめになり、五割の機能が死んでいた。昭和が終わり、ちょうど九〇年代がはじまった最初の秋。祖父は心筋梗塞で府立医大に緊急入院し、十一月に退院。いれかわるように今度は博士が持病の悪化で入院して、翌年二月に亡くなった。血糖値がかなり高かったらしいということ以外、死因はわからない。博士が病床に伏してから没するまで、祖父はとりつかれたようになんども電話をし、見舞いのために上京し、病院に紹介状を書いたり、杉菜を煎じた謎のお茶や朝の散歩をすすめたりした。もうこれ以上、親しい友を失いたくなかったのだと思う。

 「御曹司のおじいさまにはいろいろ助けていただいたから。こうやって東京にいる御曹司に恩返しするの」。私と亀山さんは震災のあった年の春にはじめて会い、翌年の秋まで交友がつづいた。だから私たちは川べりの桜を二度見上げ、その半年後に別れたこととなる。だいたい三か月に一回、「御曹司、おいしい物、食べに行きません?」と電話があり、井の頭線の両端にある吉祥寺か渋谷で昼に待ちあわせて鰻や鮨なんかをごちそうになった。食後は彼女の住まう高井戸にもどり、とぼとぼと神田川ぞいを散歩する。暖かい季節は遊歩道にあるベンチで日が傾くまで話をし、秋冬は駅前のドトールでお茶をして暖をとったが、亀山さんは「それじゃ、御曹司をお誘いした意味がないから」といって飲食代をかたくなにうけとらなかった。
 彼女が暮らしていた古いマンションのまえまで見送ったことがなんどかある。地上十一階建てのずいぶん堅牢な赤煉瓦風の建物で、街がバブルの狂乱に巻きこまれる直前にひと部屋、買いもとめたらしい。そこでは二十年まえに博士を失ってから、ゆっくりと磁石のまわりに砂鉄があつまって文様をえがくように、百二十戸ある巨大なマンションでひとり暮らしをしている女たちとのつながりが自然と生まれていった。「未婚、バツいち、バツに、死別。いろいろいたんだけど、すっかり年とっちゃってね。いまじゃ生きてる者どうしが、おたがい野垂れ死んでないかどうか連絡とりあってるの」。亀山さんの夢想する力はここでもいかんなく発揮され、登場するぜんいんに渾名がついており、震災の日も「小説家」と呼ぶ友だちの部屋に数人で集まりウディ・アレンの『世界中がアイ・ラヴ・ユー』をのんきに見ていた。小説家はメンバーのなかでは一番若い五十代で、あらゆる映画専門チャンネルと契約していたせいで、彼女の部屋では海外ドラマを見る会が定期的に催されていたようだ。色気をもてあました「ドヌーヴ」、入ったばかりの陶芸教室で大甕をつくろうとして先生を困らせた「半泥子(はんでいし)」、なんとなく上品というだけでついた「小百合」、『冬のソナタ』にはまり舞台となった半月型の小島に冬がくるとおとずれる「ナミソム」……。みな小説家の部屋で、だいたい昼すぎから菓子をつつきながらドラマや映画を鑑賞したあと夕ご飯を食べて解散。じぶんの店以外、他人の輪にうまく加われたためしのない私からすれば夢のような老後だと思うけれど、ほんとうのところはよくわからない。

 亀山さんはある日、祖父にもっとも恩義を感じているのは、博士が亡くなったあと私に写真を撮るようにすすめてくれたことだったと教えてくれた。あれがなかったら御曹司に会うこともなかったかもしれないわね、と遠い目をした。旦那さんの死後、戦中から亀山さんを見守ってきた空想の皮膜は、彼女を生き延びさせるためにゆっくりと硬化をはじめていた。葬儀を終えてしばらくしたころには、外の世界との連絡を断っていき、やがてすっぽりと小さな体をつつみこんでしまう。医者はおそらく解離性障害であると診断したのだが、亀山さんはけしてそのときのじぶんを離人症とは呼ばず「心が動かなくなっていたとき」といった。「私はほんとうに、ひとりぼっちになったの。あんなさびしい気持ちになったの生まれてはじめてだったわ。だれといても、なにを話しかけられても、ひとりだったのよ」。病院でもらった薬を飲む以外、なにもする気がおきず、ただ夢遊病者のように家の近くを歩いた。部屋にいると湖の底に沈んでるみたいに息がつまりそうだったんだから。
 彼女はいつも戸外にいた。さっそく祖父は「歩くのはとてもいいことですよ」とはげましの電話をいれた。「私も病後はかかさず、夜明けまえから一時間以上歩いてます。まえいらした松ヶ崎の家から宝ヶ池まで行って、冬は一周、夏なら二周して帰ってきます。自然には汲みつくせないほどの発見がありますな。今朝なんか、異様に大きい月がのぼってまして。弦月のふちから強い光がにじみでておりました。カメラをもってこなかったことをくやみましたよ。そうだ。もし奥さまが歩くことさえ億劫になったら、ぼくが亀山くんにあげた古いライカがあるはずだから探してごらんなさい。カメラがあれば歩くのがもっと楽しくなるはずですから。お手紙にもありましたが、奥さまは現実感がないとおっしゃる。でもカメラはシャッターを押したら、そこに事物が写ります。目のまえにあった現実が、ちがったかたちの現実となってフィルムに焼きつくのです。もといた現実じゃなく、かといって嘘でもない……不思議な気持ちになります。それは、なにかの役にたつかもしれません。亀山くんも生前、よく空の写真を撮ってましたね……。お気をたしかに。春がきたら家内といっしょに墓参りをしに東京にまいりますので」
 祖父は趣味でライカやハッセルブラッドといった古いカメラをいじった。いつも湿度計のついた黒い保管庫にぎっちりと機材がならんでいて、半世紀以上かけて集めたカメラとレンズは、あわせると百個近かったのではないか。先日、部屋を整理していたら祖父からもらったL判写真がいくつかでてきた。府立の植物園や北山通り、鴨川や宝ヶ池で撮った、なんてことない風景ばかりだ。歩道のうえに銀杏や(けやき)の落葉が散らばり、通りすぎたバイクらしき灰色の影がかかった秋の大通り、枝にとまった川蝉、夕空に浮かぶ飛行機雲、二匹の青鷺、雪におおわれてギリシャの幻獣のようになった三頭の石の馬。ある一枚の写真の右下に、九一年二月十日と日付が記されている。かつて実際にあった現実。このスナップ写真のはらむ悲しみは、シャッターボタンを押すまえと押したあとの時間がもうどこにも残っておらず、そうやって過去や未来がうばわれた瞬間には、だれしも、撮影者さえも、一部に見覚えのない景色をとどめざるをえない、ということにあるのかもしれない。

 「御曹司。御曹司の店は、がらくたでとっちらかってる私の部屋みたいね。いや……ごめんなさい。いっしょにしちゃったら失礼よね。もちろんここは、もっともっとすてきなんだけどさ」
 立派な祖父とその孫、という彼女のかってなイメージと、はじめておとずれた私の粗末な店に天と地ほどの開きがあったせいだろう、亀山さんの声のトーンにかくしきれない戸惑いがにじんでいた。
 「亀山さんの家の物と、どれも値段がついちゃってる店の物じゃ、ぜんぜん意味がちがいますよ」
 「そうかしら。私は部屋の物もぜんぶ売りたいわ。いつ死んだっておかしくないんだから。これ以上、物を買うのはやめてっていつも姪っ子にしかられてるの。もし私の部屋の物に値札がついてたら、売れるかしら? たとえば御曹司の店で」といたずらっぽく目をのぞきこむ。私はてきとうにはぐらかしながら、そんな時代が目前まで来ていることをなぜかいえなかった。
 おそらく拡張現実の技術はあとすこしで、だれかの部屋であれ、どこかの街角であれ、目のまえにある物に端末をかざしさえすれば、あるいはスマートグラス越しに視線を送りさえすれば、それがどういう物であるかを瞬時に説明するとともに、インターネット上に漂う類似品の値段や購入方法を提示するようになるだろう。物に目をやることと買い物することがかぎりなく近づき、売り買いされない物がほとんど残っていない世界――。われわれはそこへ、あと数歩でたどりつくはずだ。気づけばすでに、棚にある商品を左手に、スマートフォンを右手にもち、ショッピングサイトと価格を見くらべながら思案するお客のすがたは見慣れたものになったのだから。すべての物を雑貨としてとらえるような雑貨感覚の登場も、この来たるべき高次の消費社会にむけた下準備のようなものなのかもしれない。自室と店の垣根も、雑貨と物のさかいめもなくなっていく平らな商空間。そこで私はなにを営むことができるだろうか。さすがにその日ばかりは、亀山さんも「いつか成功して御曹司になるのよ」とはいわなかった。
 「あら、私、これがほしいわ」と亀山さんは店のかたすみにあった『星の王子さま』のスノードームをふって粉雪を舞わせた。友人がフランス本国でしか手にはいらないという理由でふんぱつして輸入したのだが、裏に「メイド・イン・ヴェトナム」とあまりにでかく書かれていたせいか、ひとつも思った価格で売れなかった品である。「御曹司もお好きなのね。私も大好き。むずかしい本ばかり読んでる博士もすぐに好きになってくれたのよ。まあ、飛行機乗りだったんですもの、あたりまえよね」
 きっとサン=テグジュペリは、ふたりの空想が落ちあえる場所だったのだろう。遠い夏、夫婦でフランスを旅した際も、彼の生まれたリヨンや、勤務先だったアエロポスタル社の拠点があったトゥールーズをめぐったらしい。「ル・グラン・バルコン」というサン=テグジュペリの常宿だったというホテルにまで泊まったの、と自慢げにいって、ふたたびドームをかたむけた。そして、ふたりが旅のついでにジヴェルニーという小さな村にあるモネの庭へも足をのばしたことを話してくれた。まっすぐの日差しがさしこむ、まさに万緑の小宇宙のなかで、モネの絵さながら池の水面に雲が流れていた。そのとき博士はぼそっと「雲のうえにも空があるのを知ってるかい?」といった。「ちょうどいま池に雲が映っているだろう。あたりまえだけど、あの雲は水の表面にとどまっていて、その下にほんとうの池がある。素潜りの選手でもないかぎり、ひとはそのなかで長く生きられない。雲のうえもね、水のなかとおなじなんだ。ほんとうの空、というべきかどうかはわからないけど、それは美しい反面、とてつもなく寒くて空気も薄い。思考さえ、うまくはたらかなくなるから」
 その日も博士は空のうえで訓練飛行をしていた。前日の晩、じぶんの乗った複葉機のエンジンがとつぜん止まり、ものの数秒であっというまに炎につつまれた機体を必死で操縦しながら、最後はスローモーションとなって敵艦にむかって落ちていく夢で目をさました。結局、朝まで一睡もできなかった博士は、たなびく雨雲をぬけて、いつもの光り輝いた透明な天蓋にでたあとも、ぼうぜんとしたまま飛びつづけた。「がたん、ってへんな振動があってさ、目をやると練習機の高度計が壊れていることに気づいたんだ。いま思い返しても不思議なんだけど、死んだように動かなくなった計器の針を見たとき、なにひとつ恐怖心というものが湧かなかった。きのうは、あれほど戦争におびえていたのにね。じぶんが、じぶんじゃなくなったみたいだった」。うしろに乗った教官にも、すぐには故障を伝えなかった。ここはひとがいるべき場所じゃないのかもしれない、というぼんやりした離人感につつまれたまま雲海を移動していく。「どこまでもおだやかで、静かに凪いでいて……この世のものじゃない気がしてたよ。ずいぶんまえ、それを酒井くんに話したらさ、すぐにわかってくれたんだ。空のうえではいろんなことがあるから、ぶじ帰ってこれてよかった、って」。閉店まぎわの店で、亀山さんから長いむかし話を聞きながら、私の頭には晩年のジョージア・オキーフが描いたコミカルな雲上(うんじょう)の絵が浮かんでは消えた。たくさんの睡蓮が咲く池のように、羊雲が敷きつめられた青い空。
 このエピソードとどこまで関係あるのかわからないが、祖父のアドバイスを聞いた亀山さんは、まだこつこつとドイツ国内だけでつくられていたころのライカを博士の遺品から探しだし、マンションのそばを流れる神田川の水面を撮りつづけることとなる。それも尋常じゃないほどたくさん。一日、二十四枚撮りのフィルムをまるまる一本使い切ると夕方に駅前の現像屋にだして、また次の日も川べりの道を散策しながら二十四回シャッターを切る。それを一年以上つづけた。「あのときのあたし、頭がいかれちゃってたのよ。写真屋のおじさんも困ってたもの」。実際の写真をいくつか見せてもらったが、たしかに画角はずれ、ピントもはげしくぼけたそれには正気を失った老境というものが宿っていたのだが、この何百枚という川の写真が亀山さんを救ったのだと思った。一枚としてむだではなかった、というよりも、散歩を伴走した意味のない行為のくりかえしが、一番つらかった時間をやり過ごすのに役立ったというべきだろうか。

 十月もなかばをすぎ、とつぜん気温が下がったせいか、待ち合わせの吉祥寺駅は普段よりひとがまばらな気がした。十五分遅れで亀山さんが翁のループタイをしてひょっこりとあらわれる。昭和通りにあったシャポールージュという名の洋食店でランチを食べているときから口数は少なく、すこし体調が心配になった。曇ってて寒いですけど散歩でもしませんかといわれ、いつものように井の頭線の高井戸駅を降りて川沿いを黙々と歩いた。両岸からのびるアーチ状の枝が、赤や黄に染まった葉を困ったようにかかえながら頭上を覆っている。ベンチに腰かけるとき「もう、この川ともお別れね」とつぶやいて、スカーフのはしで目をぬぐうのが見えた。そして長い深呼吸をしたあと、持病の心疾患が悪化したので再来週から入院することになったと教えてくれた。声をつまらせながら、私のような年寄りのことなんて忘れて、御曹司は幸せに生きていってね、といいそえて。柵の白い棒と棒のあいだからのぞく川面には、ときどき思い出したかのように枯葉が落ちた。そのたびに水紋だけを残して、流れ去っていく。

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  2018.9.20配信 HTMLメールを表示出来ない方は こちら 9月20日更新第2回 徴兵令による「私学潰し」 尾原宏之 9月20日更新(4)ラジオのチューニング 滝口悠生松原俊太……

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹