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おんなのじかん

2020年1月22日 おんなのじかん

9.「この人の子どもを産みたいと思った」

著者: 吉川トリコ

 いまから二十年ほど前、ある女優が結婚会見で語っていた。
 当時まだ二十歳そこそこだった私は、きもちわるっ! と反射的に思ったが、どうしてそんなふうに思ったのか、深く考えないまま今日まできてしまった。その女優には好感を持っていたのだけど、結婚相手の男性があまり好きではなかったので、変な人と結婚しちゃって残念だ、ときわめて個人的な理由でそんなふうに感じたんじゃないかとばかり思っていた(芸能人の交際相手や結婚相手に可否のジャッジを下すこの感覚って、いったいどこからくるものなんでしょうね。だれとだれがつきあおうとおまえにその資格は一ミリもねえってかんじですよね。たとえ親族だろうと友人だろうと、人のパートナーをジャッジする権利はねえですわよ)。
 あのとき私が忌避感をおぼえたのは、好きな人ができたらその人の子どもを産みたいと思う、それが女の本能みたいに言われたらたまったもんじゃねえ、という反発からくるものだったんじゃないだろうか。結婚を生殖に結びつける考え方自体が受け入れがたかったのだろう。子どもを産むことが男性に対する最上の愛情表現であるといったようなニュアンスも感じられて、ただただ気色が悪かった――ってこれぜんぶ、いまになって考えついた理屈だけれど、当たらずといえども遠からずといったところだと思う。
「好きな人ができるとその人の子どもを産みたいと思うのが自然じゃない?」
 とついこのあいだも『グータンヌーボ2』でだれかが言っていたが、ぎょぎょぎょっとさかなクンばりに声をあげてしまいそうになった。
 誤解しないでほしいのだが、それが悪いと言ってるわけではない。価値観というか世界観がちがいすぎて、すぐには呑み込めなかっただけである。あなたが恋をしてどんなふうに感じようとそれはあなたの自由だが、それがすべての人類共通の自然の摂理みたいに言われてしまうと、あまりの受け入れがたさにじぇじぇじぇっとあまちゃんばりに声をあげてしまいそうになるのである。
 十代で第一子を出産し、その後、父親のちがう子どもを年に一度のペースでぽこぽこ産み続けた、といったような田舎のヤンキー女子列伝を耳にすることがたまにあるが、そちらのほうがまだ理解できる。より動物的で本能的なかんじがするからだ。生殖に恋が絡んできた時点で、本能とは別のイデオロギーが発生する気がどうしてもしてしまう。いや、ヤンキー女子だってそれぞれの父親と毎回すてきな恋をしたのかもしれないけどさ。
 子どもが欲しい理由を女性に訊ねると、大きく分けて三つ、本能型、好奇心型、規範遵守型のうちのどれかにあてはまる(現実逃避型というのもあるけど、そのタイプの人が正直に理由を口にすることはあまりないのでここでは省略する)。
 本能型は、「理由なんてない。本能としか言いようがない」というとりつくしまもないタイプ。
「子どもを産んで(育てて)みたかった」「子どものいる人生に興味がある」「自分の子どもに会ってみたかった」など子産み/子育てに対する好奇心を、ややポエミーに語りがちなのが好奇心型。
 そして、いちばんのボリュームゾーンではないかと思われるのが、「結婚して子どもを産むのが女のしあわせ(つとめ)だから」という規範に多かれ少なかれ影響を受けている規範遵守型である。
 ハウスメーカーのCMで描かれるようなしあわせな家庭像というものが確固としてあり、そこに向かってまい進するのみ、といったタイプもいれば、みんなそうしてるから私もそうしとくか、ぐらいの流れ作業で出産に臨むタイプもいる。「親のため」「イエのため」に子を産んだり、「世間様に申し訳ない」的な感覚に押しつぶされそうになるのは典型的なこのタイプだし、「女に生まれたからにはいずれは子を産みたい」とかいうのも本能型に見せかけたこのタイプ。「女のスタンプラリー、より多く集めたほうが勝ち!」という好戦的なタイプも、「女のビンゴゲーム、揃えたほうが楽しいに決まってんじゃーん!」という享楽的なタイプも、みんなまとめてここである。
 あるときまで私は、規範遵守ホットロードを爆走していた。子産み/子育てについて深く考えることもなく、二十六歳で子どもを産むんだとごくごくあたりまえに思っていた。三十代の危機を迎えたあたりで、「マンネリから脱したいから子どもが欲しい」という逃避願望がそこに加わる。小説家として、取材のために子どもを産んでおいてもいいかもという好奇心がないでもなかった。長いあいだ私は自分以上に愛せる相手が欲しかったが、もしそんな人に出会えるとしたら、自分が産んだ子どもだけなんじゃないかとも思っていた。それは「母性幻想」でしかないと、あとになって堀越英美さんの『不道徳お母さん講座』を読んだときに気づいて愕然としたのだけれど。
 規範なんてこの俺がぶっ潰してやる! と常日頃から気を吐き、血縁は呪いだと思っている私のような人間でも、「伝統的な日本の家族観」やら「母性」やらの仕掛け網にうっかり捕まってしまうのだから難儀なものである。

 どちらかというと、子どもが欲しい理由を語る人たちの言葉より、子どもが欲しくない/持てない理由を語る人たちの言葉のほうが、いまの私にはフィットする。
 経済的、年齢的、健康上の理由、時間を拘束されたくない、自由を手離したくない、自分の子どもだからといって愛せるかどうかわからない、子どもを育てる自信がない、妊娠・出産がこわい、どんどん悪くなっていく一方の世界に我が子を産み落とすなんてそんな残酷なことはできない、子どもを持つことがどうしてもイメージできない――等々、彼女たちの言葉は明晰で理屈が通っているから、肌なじみのいい化粧水のようにすうっと浸透する。自分にもいくらか身に覚えのあることだからというのもあるが、なにかにつけて体制側の人間たちに説明を求められてきたから、それでより言葉が説得力を増し、研ぎ澄まされているのであろう。なにより借り物の言葉ではなく、ちゃんと自分で思考して選びとった言葉だと感じられる。「好きな人の子どもを産みたいと思うのが女の本能」にくらべたら驚きの浸透力である。
 子どもが欲しかろうが欲しくなかろうがそんなことは当人の自由であるはずなのに、いまのところ子産み/子育てジャンルはこの社会においての最大ジャンル、疑問を差し挟む余地なく「善きこと」とされていて、そこから外れる人間に説明を求める圧が確実に存在する。女性やセクシュアルマイノリティや障がい者といった社会的マイノリティの側にばかり説明を求めるのと構造は同じである。俺たちを納得させるように説明したら認めてやらんでもないとふんぞりかえるおっさんたち(※イメージ)の姿が見えるようだ。
 もしかしたらまだ出会っていないだけで、この広い世界のどこかには、「いやなものはいや! とにかく本能的にいや! 子どもなんて欲しくない!」ととりつくしまのないかんじで言ってのける人もいるのかもしれないけれど。っていうか、絶対いるはずだよなあ。

 それでもおそらく多くの人が、0か100かで言い切れるわけではなくて、32ぐらいのテンションで子どもが欲しくないという人もいれば、66ぐらいで子どもが欲しいという人もいるだろう。今日は78を叩きだしても、明日には45まで下がるかもしれない。
 0から100のあいだを行ったり来たりするのはしんどい。こうと決めてしまったほうが楽だから、みんな自分を納得させるに足る言葉を探すのだろう。「さいわいなこと」にこの社会には、女が子どもを産みたくなるような洗脳の言葉があふれているから、てきとうなものを一つ選んで採用してしまえば、落ち着きどころがすとんと見つかる。子産み/子育てジャンルにおいて、言葉の精度を問う人はあまりいないわけだし。
 できることなら私だってそうしたいのだが、職業柄か、なるべく正確に厳密に表現しなければと思うあまり、しっくりくる言葉が見つからなくて往生している。どんな理由をつけたところで、子どもを産むなんて100%親の勝手だし、やはりとても恐ろしいことだと私は思う。私が自分の親を好きになれなかったように、自分が産んだ子が私を好きになれないことだってあるだろう。その逆だってありうる。生まれてくる子がしあわせになれる保証なんてどこにもない。考えれば考えるほど、ネガティブな想像ばかりが浮かんでくる。
 しかし、そんなに言うならどうして私は不妊治療してまで子どもをもうけようとしているのだろうね? まったく人間というのは不可解な生き物であるな……といきなり主語をでかくし神の視点に逃げることもできるけど、うーんうーん。
 血縁にこだわらなくたって養子や里子などの選択肢もあるわけだし、不妊治療してまで産んだ子と折り合いが悪かったりしたらそちらのほうが絶望は深いだろう。そういった意味でも妊娠・出産というのはガチャみが強いものである。
 ひとつだけ言えるとしたら、夫の子どもなら目に入れても痛くないほどかわいいだろうなという確信があるから、だろうか。
 自分の子どもを愛せるかどうかはいまいち自信が持てないけれど、夫の子どもなら愛せる。ぜんぜん愛せる。まだ会ってもないけれど、着床すらしていないけど(かろうじて受精はしている)、すでにもうめっちゃ愛している。そうかといって、別の女が産んだ夫の子を愛せるかと言ったら……(しばし熟考)……いけるっちゃいける気もするが、私も人の子、絶対の自信があるとは言い切れないので、やはり自分で産むしかないか、といったところ。
 二十年のときを経て、記者会見であの女優が言わんとしていたことを、いまになって私は理解できるような気がしている。それでもやっぱりあの言いまわしには、ぎょぎょぎょっとなってしまうんだけど。

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"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹