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おんなのじかん

 去年の終わりに胚盤胞移殖をした。
 卵子の若返りに効くというレスベラトロールなるサプリを半年ほど飲み続け、過去最高に質のいい卵子が取れていたことと、直前に子宮内フローラを改善する治療を行ったことで、移殖する前から「これはもはやもらったも同然だな」とどこからくるのかわからない自信に満ちあふれていた。
(ちなみにレスベラトロールはあくまでサプリなので劇的な効果があるわけではない。参考までに留めておいてほしい。子宮内フローラというのは、腸内フローラと同じく、子宮の善玉菌を増やすことによって妊娠しやすい環境をととのえるといった、この分野では最新の治療である。「最近、流行りのやつだわ」とうれしそうに院長も言っていた。モンスター院長、普段はものすごくかんじが悪いのに、最新技術や医療について話すときだけ子どものようにはしゃぐから、うっかりかわいく見えてしまうのがくやしい)
 移殖当日の夜から、尿意を感じて頻繁に目が覚めた。一晩で四、五回はトイレに行ったんじゃないだろうか。以前、妊娠していたときにも同じ症状があったことから、「もらったぜ!」と私は着床を確信した。着床判定は移殖の五日後だったけれど、妊娠初期の症状と思われる頭がぐらぐらするような眠気も、足の付け根や下腹部の痛みも感じていたので、「着床したかも」とTwitterに投稿しながら、これじゃ椎名林檎の「よし、着床完了。」じゃねえかと思って苦笑したりした。
 十二月に移殖したから生まれるのは八月ぐらいか、真夏に臨月ってきつそうだなあ。そうなってくると来年はうかつに新しい連載を始められないな、スケジュールを見直さないと。春物のワンピースを予約するつもりだったけど、妊娠したら着られないからYAECAのワンピースでも買うとするか。連載が終わったら韓国に短期留学したかったけど、しばらくはお預けだなあ。いまのジムは妊婦の利用を禁止しているけど、おなかが目立つようになるまでランニングマシンだけでも使わせてもらえないだろうか。あと我慢しなくちゃいけないのは酒か……酒に未練は……そんなに、ないな……。やめられるならやめられるほうがいい。
 自分でも不思議なほど冷静に、すんなりと妊娠を受け入れていた。
 一年前までは、こんなふうじゃなかった。妊娠したら自由に身動きが取れなくなるからと映画館に通い詰め、その年の鑑賞本数は百本を超えた(いつもはだいたい60~70本くらい)。手あたり次第にチケットを取って観劇しまくり、韓国語まで習いはじめた。移殖直前には一人でソウルに行って、好きなだけ遊びまわった。妊娠することにどこかで怯えていたのだろう。移殖が成功しなかったことに安堵さえした。
 これで治療を終わりにしようと一度は考え、子どもがいなくたって最高におもしろおかしく生きていくつもりだもんね、と宣言するようなエッセイを書いた。その舌の根も乾かぬうちに治療を再開してるんだから、不妊沼のおそろしさを身をもって証明したようなものだけれど、それまではたぶん、夫のために治療をしていたんだと思う。
 一年ほど前、よく行くスーパー銭湯である母娘を見かけた。小学校にあがる前ぐらいの女児が風呂の中を歩きまわっているのを、いとおしくてたまらないという表情で母親が眺めていた。
 なんだこれは。子どもは人生を妨げるもの、可能性を奪っていくものとしか考えていなかった私は、脳がバグるほどの衝撃を受けた。なんなんだこれは。
 治療を再開した直接のきっかけというわけではないけれど、この一年間その光景がずっと頭のどこかにあった。憧れのような羨望のような、まぶしいものを見るような気持ちとともに、おそらくはこれからもあり続けるんだと思う。

 そうして迎えた着床判定日。
 診察が終わったらソルロンタンでも食べて、妊娠しても着られるような服を買いにナチュラル系のセレクトショップに行こうと算段していた私は、「残念だけど、着床しとらんね」という院長の言葉に、「えっ!」と思わず声をあげてしまった。ショックというより、驚きのあまり漏れ出てしまったようなかんじだった。え、だって私ついさっきまで待合室で「おしゃれ マタニティ」で検索して出てくる、とてもおしゃれには見えない洋服の数々にげんなりしてたんですけど……。
 なにかの間違いじゃないかと疑うのと同時に、気が抜けたようになって、今後の治療について提案する院長の話もぼんやりと聞き流すことしかできなかった。この三年間に経験したいろんなことが空気のように抜けていき、どんどん自分がしぼんでいくようだった。
 これでほんとうに終わりだと、移殖する前から決めていた。
 「不妊の原因がはっきりわかってる夫婦のほうが、治療法がわかってるぶんだけ結果が早く出たりするんだよ。原因がわからないってことは、まだその原因を解明できるほど医療が進んでないってことなんだと思う。子宮内フローラも最近になってわかってきたことだしね」
 かかりつけの鍼灸師がそんなことを言っていた。現時点の医療では原因がわからなくて、いたずらに治療期間が延びてしまった不妊の夫婦。私たちはまさにそれだった。医療が発達するのを待つような余裕は、時間的にも金銭的にももう残されていない。やれるだけのことはやった。これで卒業だ。
 その日の昼はソルロンタンではなくイタリアンのランチにして昼からワインを飲んだ。家に帰って二時間ぐらいフテ寝して、起きてからすぐにまたワインを開けた。お酒、やめられるものならほんとうにやめたかったんだけどなあ。

 年の暮れに義父が亡くなり、ばたばたした年越しになってしまったが、むしろそっちのほうがよかった。せわしさに目をくらましているうちに、静かに腹を決めていったような感触がある。でも、まだ完全に決まってるわけでもない。
 年が明けてから、妹(ゆ)の赤ちゃんにようやく会いに行った。まだ首も据わっていない赤ん坊を腕に抱き、「かわいい~」と思わず声をあげた夫こそ私にはかわいかった。自分の子どもを抱いたりおむつを替えたりミルクをあげたり寝かしつけたり……そんな夫の姿が見られないのが残念だとも思った。推しのあらゆる姿を見たいと思うのはオタクとして当然のことである。できることなら夫といっしょに子育てがしたかった。そのことを考えるといまも涙が出てきそうになる。
 数日後、セールを見に行こうと街へ出たとき、向こうから走ってきた小さな子どもに無意識のうちに手を伸ばしかけ、「『八日目の蝉』、ダメ絶対!」とはっとして引っ込めた。あぶない。危うく幼児誘拐犯になるところであった。無意識(というか未練というか執着)というのは恐ろしいものである。
 諦めないことより諦めることのほうがずっと難しい。
 どこかで聞いたような言葉だけれど、ここにきてその意味がようやくわかった気がする。そろそろ人生の折り返し、これから諦めることがどんどん増えていくんだろう。
 さびしいな、とふいに思う。いったんそう自覚してしまうと、さびしくてさびしくてしかたがなくなる。
 いつかこのさびしさが薄れる日がくるんだろうか。もしかしたら一生このままなんだろうか。
 やっかいなことに、早くここから抜け出したいと思う気持ちと、いつまでもここに留まっていたいという気持ちが同じぐらいある。
 それでも毎日はそれなりに楽しいし、酒はうまいし、推しはかわいいんだからまいってしまう(嘘。ぜんぜんまいってない)。
 とりあえずいまは、三代目 J SOUL BROTHERSのツアーチケットの抽選が当たることを祈るばかりである。三年間がんばったご褒美に、アリーナ前方席ぐらい与えてもらっても罰は当たらないと思うんだけどなあ。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

吉川トリコ

よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。

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