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デモクラシーと芸術

2020年2月26日 デモクラシーと芸術

第14回 グールドが夢想した「平等性のユートピア」

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

オリジナルの持つアウラ(Aura)

 絵画の世界では不確実性の問題が中心を占めることはない。画を観るものは完成品と対峙するのがほとんどだ。もちろん油絵画家が、何度も重ね塗りをした痕跡を見ることもあれば、構図に加えた変更をX線で読み取ることもできる。しかしそれは美術研究者の関心を誘うことはあっても、われわれ一般の鑑賞者にとっては単なる好奇心をそそる情報に過ぎない。
 ではなぜ絵画については「オリジナル」にこだわるのだろうか。おそらく名画「オリジナル」に付きまとう「有難さ」と、それに付された莫大な経済価値と無関係ではあるまい。ではその経済価値を裏打ちしている「オリジナル」の唯一性の有難さは、どこから来るのであろうか。廉価な複製ではなく、ひとつしかない高価な「ホンモノ」を見てみたいという好奇心だけからなのか。あるいは、オリジナルが持つ何か霊気を帯びた価値からなのだろうか。
 こうした「オリジナル」と複製品の違いに対して、最も早い段階で哲学的思考のメスを入れたW・ベンヤミンの分析を、これまで本稿で論じてきた「音楽の教会から劇場への移動」という現象と重ね合わせて考えてみたい。それは芸術品における霊性や神々しさが失われ「世俗化」して行くプロセスと見ることができる。

ヴァルター・ベンヤミン

 「オリジナル」と複製品(コピー)はどこがどう違うのか。複製品であると知っている場合と知らない場合とでは、鑑賞者の意識と反応は異なるであろう。特にその複製品が大量に製造されたものである場合は、鑑賞者(受け手)が価値を見定める姿勢、すなわち評価の中身は異なってくる。
 ベンヤミンは『複製技術時代における芸術作品』(1935)で、石器時代の洞窟の壁に模写されたオオシカから現代の映画に至るまでの芸術表現の進展のプロセスを、その社会的な機能に注目して、「礼拝価値」と「展示価値」という二つの対概念で把握した。オオシカが一つの魔術の道具であったように、芸術の原初的な形態は魔術、ないし宗教的なものと結びついていた点に注目しているのだ。
 宗教そのものが次第に組織化されてくると、魔術的な要素は後退し、典礼(liturgy)としての要素が強まり形式化して行く。そこに「反復」を容易にする機能変化が生まれてくる。典礼としての形式が確定してくると、時と場所の制約から解き放たれて、いつでも、どこでも、その形式を反復することが可能になるのである。
 キリスト教の「ミサ聖祭」は、元来、イエスとその弟子たちが最後の晩餐において「パンとぶどう酒」を食したことを記念として、使徒たちにその記憶を蘇らせるために儀式化されたのである。イエスの十字架上の死を「忘れないため」「記念するため」に企てられた典礼なのだ。1回限りの出来事であった最後の晩餐において、イエスが、「パンをわたしの体として食べ、ぶどう酒をわたしの血として飲むように」と指示することによって、「ミサ聖祭」として反復可能な形式が生まれた。それが、単に普通のパンとぶどう酒を最後の晩餐の記念として食するのではなく、「聖餐」のパンとぶどう酒を司祭がキリストの肉(聖体)と血へと「聖変化(transsubstantiation)」させるという点がミサ聖祭の核心部分なのだ。
 オリジナルはただひとつであり、その核心部分を再現あるいは複製して反復可能な典礼の形にするというのはキリスト教以外の宗教にもある。オリジナルの歴史的事件としての「最後の晩餐」と、それに続く「イエスの十字架上の死」は、人々を圧倒的な力で捉え、畏敬と崇拝の気持ちをもたらした。しかし典礼としてのミサ聖祭は、その事件を想い起こすためにデザインされたものであるから「オリジナル」の持つパワーはない。
 ベンヤミンが概念化した「礼拝価値」と「展示価値」がそのまま、イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」とミサ聖祭と類比的な関係にあるわけではない。ミサ聖祭自体には依然として「礼拝価値」は存在する。しかしオリジナルとコピーという関係にあることは確かだ。このオリジナルが持つパワーを、目に見えない流動物、Aura(現代の日本語でも使われるオーラ)と呼び、「オリジナル」と比べると、「複製物」にはAuraが少ないとベンヤミンは言う。技術展開が手工業的複製から技術的複製へと進展するにつれ、芸術作品が、初めて創り出されたときに持っていた「オリジナル」としてのAuraはコピーにおいては消え去る。
 言い換えれば、芸術作品は複製されることによって、「礼拝価値」から「展示価値」へとその社会的機能をシフトさせるのだ。技術の力によって複製された芸術品は、いまや多くの人間が、いつでも、どこでも、近づくことができる「展示物」と化す。
 ベンヤミンは、この過程が、「民主化」のプロセスとほとんど並行して起こってきたことに注目している。そこに彼のマルクス主義者としての面目があると言ってもよい。「礼拝価値」から「展示価値」への移行を、一部の特権階級の独占物であった伝統芸術が、大衆へと門戸を開いていく過程と見ているのだ。彼が複製芸術の例として取り上げている映画は、Auraを消失させることによって多くの鑑賞者を獲得する。それは展示物を観るときに持つ気晴らし(divertissement)の散漫さを伴う。『世界名画全集』で高度の写真技術で撮影された名画を眺めるときに持つ「気晴らし」の気分である。
 もちろんこうした気晴らしの気分を創出するための音楽は、西洋古典音楽の中にも存在した。王宮で音楽を楽しむ王侯貴族は、生の演奏を聴きながら食事をし、歓談していたであろう。18世紀半ばに流行し、モーツァルトも多くの作品を残したディヴェルティメント(Divertiment)K.136K.137K.138などはその最たるものであろう。ただ、晩年のモーツァルトが作曲した大曲、弦楽3重奏の喜遊曲(K.563)はとても気晴らしで聴けるような曲ではないが。
 コンサート・ホールの聴衆は、生の演奏をバックグラウンド・ミュージックとしてではなく、一回限りの演奏として、全精神を「集中」させて聴き入る。CDの場合、何かをしながら散漫な気分で聴くことが多いのは、一回限りではなく、いつでも、どこでも、聴くことができる複製品だからであろう。

演奏芸術におけるデモクラシー ― G・グールドの問題

 演奏が一回限りであること(non-take-twoness)への疑問を呈し、録音技術の登場と進歩により、ライブ・コンサートはその意義を失ったと主張したのはグレン・グールド(1932~1982)であった。自身を「コンサート・ドロップアウト」と称し、1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後に、31歳にして一切のコンサート演奏から引退した。それ以後20年近く、最期までコンサート会場で演奏することはなかった。

グレン・グールド(Don Hunstein / Glenn Gould Foundation / Wikipedia Commons)

 グールドにとって、「ホンモノ(authenticity)」とは何を意味したのだろうか。この論点は録音・再生の電子技術が目覚ましい発達と普及を遂げた20世紀の終わりごろには、もはやそれほど重要な意味を持たなくなってきたのだろうか。例えば、ベンヤミンが論じた映画芸術を考えてみると、新技術の時代における「ホンモノ」に関する議論には、微妙な質の変化が認められるようだ。
 スタジオで編集された映画のフィルムを考えてみる。それが高度の技術を用いて精緻に編集されているがゆえに、「ホンモノ」性が低下していると言えるだろうか。グールドはこの点について、次のような映画の編集の場合を例に挙げて「ホンモノ」論に疑義を呈している(Kingwell  2009)。2時間の映画が2時間で撮影されたとは誰も思わない。映画は、たくさん撮った大量のフィルムを繋ぎ合わせて「編集」され最終的に完成するのだ。それとスタジオで何度も演奏され編集された音楽を聴くことと、どこに本質的な違いがあるのだろうか。その編集作業は、演奏者、音響技師、聴き手がそれぞれの立場から問題点を指摘しながら、最終生産物を創り出している。このプロセス自体は一つの「創造行為」だと考えられるのではないか。
 グールドがコンサート会場で演奏しなくなった理由として、次のような「発見」を具体的に語っている点に注目したい。ひどい低音指向のスタジオ・ピアノで仕事をした後、「低音を百サイクルあたりでカットし、高音を約五千サイクルまで増幅してみたところ、そのピアノが魔法にかかったようにすっかり様変わりしたことを発見した」というのだ。ここで行われた「加工」をグールドは創造プロセスと見る(ペイザント『グレン・グールド — なぜコンサートを開かないか』、木村英二訳)。
 こうした「発見」に基づいて、グールドはスタジオで技術的にコントロールされ、親密な雰囲気の中での共同作業によって自分の演奏が録音されることを好んだ。コンサート・ホールでの演奏は、競争的スポーツの闘技場のようなものだとして嫌った。いつ演奏者は間違えるのかを、闘技場の聴衆は今か今かと好奇の眼で待っていると彼は感じていた。もっとも、彼の録音が、スタジオの中の編集と呼ばれる「継ぎはぎ」作業から生み出されたと考えるのは早計だと言われる。あるプロデューサーの証言では、彼はほかの多くの演奏家がスタジオ録音をする時よりも、「継ぎはぎ」の程度は少なかったという(Bazzana)。彼は、作曲家の遺した楽譜を再現する演奏家は、単なる解釈に留まらず、原曲(楽譜)を技術の助けによって、自分が望む形に創造し直す権利と自由を平等に持っていると主張したのだ。

「芸術家としての聴き手」の自由

 さらにグールドは、レコードの登場によって、音楽を聴くという営為も、コンサート・ホールに縛り付けられる制約から解放されたと見る。コンサート・ホールにおけるただ一回の「本番」ではなく、何度でも、都合のよいときに演奏を耳にすることができるようになったのである。加えて、レコードによって生の演奏会では聴き取れないような多くの音を聴き分けることも可能になった。録音・再生技術の進歩によって、コンサートでただ受け身となって音楽を楽しんでいた聴き手は、レコードによって芸術への「参与者」となって来たのだ。ここに、演奏家は作曲家の意図を忠実に再現し、それを与えられたものとして聴き手は受け入れる、という一方的な従属関係は崩れ、「作曲家・演奏家・聴き手」の三者がそれぞれ自律的に芸術活動の一端を担うという「参与の構造」が生まれるとグールドは考えた。
 このような構造は、宮廷はもちろん、コンサート・ホールでの演奏会が含み持つ、一方向の従属関係を取り崩す。例えば「ベートーヴェンが作曲した曲を、スター指揮者のカラヤンが指揮するベルリン・フィルのコンサートの高いチケットを買って聴きに行く」という、ある種の芸術における位階構造を、録音・再生技術が「覆した」と言わないとしても、徹底的に「弱める」力となったことは否定できない。つまり、音楽芸術が、複製技術によって広く行き渡るという点で、さらなる平等化が量的に進んだだけでなく、位階構造そのものを弱めるという形の「民主化」が進行したとグールドは見たのだ。
 一時流行したMinus Oneレコード(伴奏だけが録音されたレコード)や「カラオケ」も、この脈絡で考えると、最も身近な類似の「民主化」現象と見ることができる。みんなソロの楽器演奏者やソロ歌手となることができるからだ。
 さらに、レコードは別の仕事をしながら音楽を聴くということを可能にした。つまり聴き手の生活のなかに音楽が薄められた形で浸透し、参加型の芸術活動が主流となり、人々の生活の中の装飾物となった。このデモクラシーを推し進めると、伝統的な意味での支配と従属の芸術は存在しなくなり、世界がユートピアとなるとグールドは考えていたようだ。
 ここまで来ると、グールドの複製技術のもたらす平等化論もいささか奇怪さを増す。それは彼が「情緒的な二枚舌(pathetic duplicity)」と呼ぶような「主張事実の複合」を生んでいるからである。論文「創造プロセスにおける偽造と模倣(Forgery and Imitation in the Creative Process)」におけるグールドのホンモノと創造性についての理論は、オランダの天才的贋作画家ハン・ファン・メーヘレン(1889~1947)が起こした20世紀で最もドラマティックな絵画詐欺事件の例を挙げながら、「芸術のないユートピア」論へと発展する。

いつ、誰によって制作されたのかは重要か

 ハン・ファン・メーヘレンは、ナチス高官(特にヘルマン・ゲーリング)にフェルメールなどのオランダ絵画を高額で売りつけたとして、戦後、ナチス協力者、文化財略奪者としてオランダで裁判にかけられた。彼の画家としての力量、贋作と見破られないための制作過程の巧妙さ、フェルメールが制作活動をしていなかった時期の確定などの考証力は、実に驚くほどのレベルであった。裁判の過程で、彼は自分の無実を主張するために、それらの絵画は自分が描いた贋作であることを告白せざるをえなくなり、ゲーリングたちが完全に一杯食わされたという事実が明らかになるのだ(ほとんどドキュメンタリーとも言える「ナチスの愛したフェルメール」(2016年)はファン・メーヘレンの伝記映画である)。

ハン・ファン・メーヘレン(Koos Raucamp / Wikipedia Commons)

 グールドは、ファン・メーヘレンこそ自分の私的ヒーローだと言う。彼が起こした事件は、著作者であることの個人的な責任に関してある種の危機をもたらしたと捉える。この危機こそ、電子メディアによる生産活動と同じ問題を含んでいる点に注目しているのだ。グールドは「紛うことなきニセモノ」を作るということは、メディアの効果についての具体的、歴史的なケースとしての意味を持つと考える。
  20世紀に描かれた全く無名(匿名)の画家の作品が、作品それ自体に大きな価値が与えられたこの事件を、グールドは「ファン・メーヘレン・シンドローム」と呼んだ。それは技術がもたらす非歴史性と匿名性の中で、(ファン・メーヘレンの作品が)真っ当に評価されたからである。
 われわれが芸術作品を評価する場合に重視しがちな要素として、作品の持つ新奇性がある。形式や内容の目新しさ、独創性と言い換えてもよい。例えば、ベートーヴェンの弦楽四重奏『ラズモフスキー』(第1番、Op.59=1)の素晴らしさの重要要素は、それがハイドンやモーツァルト、あるいは初期のベートーヴェンの弦楽四重奏曲が生み出し得なかった音楽芸術の新しい側面を見せてくれるからだ。もしその同じ曲が、シューマンやブラームスが活躍した時代に発表されていれば、その評価はやや異なったものになったかもしれない。このように作品の評価はその生み出された時代の拘束から全く自由なわけではない。
 音楽そのものを聴いて評価するのではなく、どの時代の作品(歴史的要素)、誰の作品という情報に左右されることがある。ファン・メーヘレンの詐欺事件は、芸術を歴史と個人が創り出した作品という点に引きずられた、「評価のシステム」が惹き起こした出来事と考えることができる。芸術の評価はもっと自由で自分本位のものでいいというのが、グールドの目指す平等な芸術鑑賞のイメージなのだろう。
 しかしこのような見方を徹底すれば、芸術は、W・ベンヤミンのいう「展示価値」しか持たないものになってしまうのではないか。そこには作品が発するAuraは完全に消え去り、音楽が日常の消費財のように使い捨てられ、音楽そのものに正面から向き合うという姿勢が消え去った単なる「気晴らし」、あるいは装飾品に過ぎなくなるのではないかという疑問がわく。この点は後に論ずるように、集中力を欠いた聴き手が、音楽に対する自律性を失い、音楽を全体性の下で把握・理解することもなくなるという、T・アドルノ(1903~1969)の指摘につながる。
 こうした傾向は、音楽そのものが商業世界での取引対象としての性格を強め、(グールドが予測したような)技術によってもたらされるはずの作曲家、演奏家、聴き手の三者の平等性はむしろ失われて行く。聴き手の自律性が失われる可能性は大きい。特に演奏家の世界に入り込んでくる商業メディアによって、気が付くと聴き手は最も受け身の立場に追い込まれてしまうからだ。
 複製技術は音楽を楽しむ人々の数と機会を増やした。技術は芸術世界にも民主化をもたらしたのだ。しかし同時に、そして逆説的なことだが、その民主化が極めて強い「隷属の精神」を生み出す可能性を高めたことも確かなようだ。それは政治の世界において無批判な平等化の進展が、強力な権力と、その権力に追随する隷属の精神を生み出す現象と軌を一にしていることは言うまでもない。 

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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

連載一覧

  • 津野海太郎「最後の読書」読売文学賞受賞


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